憲法三原則の呪縛を断つ
(平成30年)

針原 崇志



緒言


現憲法施行から70年を経たいま、ようやく憲法改正が現実味を帯びつつある。
現憲法はわが国の自発的意思によって制定されたものではない。
GHQによる占領期間中、わが国の弱体化を図る意図をもって、
GHQに提示された原案をもとに制定させられたものである。
したがって、これを改めて「日本の憲法」を取り戻そうというのであれば、
大いに歓迎したいところである。

しかしながら自民党の憲法改正草案(以下、自民党草案)を見てみれば、
結局、GHQに押し付けられた価値観、すなわち、国民主権、基本的人権、平和主義の三つ、
いわゆる憲法三原則を堅持した内容となっている。
これでは安倍首相のいう「戦後レジームからの脱却」とはほど遠い、
むしろ戦後レジームの追認と再確認、
つまりは「戦後レジームの強化」のための改正といわざるを得ない。

これに対し
「(自民党草案は)国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持するといってる。
この三つは、マッカーサーが日本に押し付けた戦後レジームそのものだ。
この三つを無くさなければ本当の自立自主憲法にならない」
と、元自民党所属議員ながら自民党草案を喝破した長勢甚遠元法相の発言が
インターネット上で波紋を広げている。
しかしこの発言に賛同する意見はあまり見られず、否定的な意見ばかりが目立っている。

だが、非難している人々は、
果たして憲法三原則なるものを本当に理解した上で非難しているのであろうか。
単に学校教育の中で繰り返し刷り込まれ洗脳されたことで、重要なものと信じ込み、
ろくに考えもせず脊髄反射的に反発しているだけではないのだろうか。

そこで以下、憲法三原則の意味内容を吟味し、
わが国の憲法には不要なものであることを論証していくこととする。

ただ、平和主義については既に諸賢の盛んに論じるところであり、
あえて拙論を披歴するのも憚られるので、
当論文では他の二つ、国民主権および基本的人権について論じたい。


国民主権
(※当論文では「人民主権」も含むものとする)



◇国民主権≠民主制



国民主権について、中学校の教科書ではこう説明されている。

日本国憲法の基本原理の一つである国民主権は、国の政治の決定権は国民が持ち、
政治は国民の意思に基づいて行われるべきであるという原理です。
(1)

このように、国民主権と民主制とを混同した説明がなされることが多いが、
この両者は、あくまでも別次元のものと考えるべきであろう。

すなわち、こんにちの一般的な用法として、
国民主権は天皇主権や君主主権などと対比され、
民主制は専制や独裁制などと対比されることをふまえれば、
国民主権は「だれに」国政の最高意思決定権が属するかという視点に
重点が置かれているのに対し、
民主制は「どのように」政治が行われるかという視点に重点が置かれたものといえよう。

したがって、必ずしも「国民主権=民主制」ではなく、
国民主権でありながら独裁的な政治が行われることもあれば、
君主主権でありながら民主的な政治が行われることもありうるのである。

諸外国の実例を見てみたい。

英『エコノミスト』誌傘下の研究機関による調査、
2016年度版の「民主主義指数」(Democracy Index by country 2016)(2) によれば、
調査167ヶ国中19ヶ国が「完全な民主主義」(Full democracies)と評価され、
そのうち10ヶ国が国王・大公を元首とする君主国だったのだが、
そのなかで、憲法上国民主権を明記している国は、
わずか3ヶ国にとどまる。
(スウェーデン(統治法典第1章1条)、ルクセンブルク(第32条)、スペイン(第1条2項))
他の7ヶ国には、国民主権規定など存在しないのである。
(ノルウェー、ニュージーランド、デンマーク、カナダ、オーストラリア、オランダ、イギリス)。

にもかかわらず、ノルウェーなどは長らく民主主義指数トップの座を保ち続けている。
国民主権規定など存在しなくとも、民主政治にはなんら支障をきたさないのである。

そして7ヶ国のなかにイギリスが含まれている。
イギリスはそもそも「憲法」という名前の法典自体が存在しない「非成典化憲法」の国なのだが、
イギリスは一般的に「議会主権」といわれている。
俗に「議会は、男を女に、女を男にする以外は何でもできる」といわれるほど
万能の権限を有する、まさに「主権者」と呼ぶにふさわしい存在なのだが、
この場合の「議会」とは、貴族院と庶民院の両院に加えて、
女王(国王)もまた「議会」を構成するものとされている。

この女王(国王)・貴族院・庶民院の三者によって構成される
「議会における女王(国王)」(Queen(King) in Parliament)に
主権があるとされているのである。
つまり女王(国王)が主権の一端を担っているのだが、
そのことは、イギリスが「完全な民主主義」であることを
何ら妨げるものではないのである。

英国女王を元首とする英連邦諸国(ニュージーランド、カナダ、オーストラリア)も
これに準ずるとするならば、
10ヶ国中少なくとも4ヶ国は、国民主権ではない「完全な民主主義」の国ということになる。

一方、民主主義指数最下位の北朝鮮の憲法(第4条)には
「朝鮮民主主義人民共和国の主権は、
労働者、農民、勤労インテリ及びすべての勤労人民にある」
と規定されているが、その実態は周知のとおりである。

つまり、国民主権であろうとなかろうと、
国民主権を憲法に明記しようがしまいが、
民主政治とは何ら関わりのないことなのである。


◇国民主権は革命の産物


国民主権が民主政治と無関係のものであるならば、では国民主権とは何なのか。

そもそもこんにち用いられている意味での主権という概念は、
16世紀後半、フランスの法学者、ジャン・ボダンによって確立された。
当時のフランスは内戦(宗教戦争)のさなかにあって、
国内の封建領主は分裂して相争い、
ローマ法王も外部から介入するなど混乱を極めていた。
これを収拾して国王を中心に国を一つにまとめるべく、
「君主は、他者を統率するために、神からその代理人に任じられている」(3)
とする王権神授説をもとに、フランス国王の国政に関する権力が、
他の封建領主を従わせることのできる国内最高のものであり、
しかもローマ法王さえも外部から口出しすることのできない対外的に独立したものである、
ということを理論づけた。
その権力が主権である。これが欧州各地に広まり、絶対王政を根拠づけるものとなった。

その国王が有していた主権を、革命によって国民が簒奪したことを
声高らかに謳ったのが国民主権である。
たとえば、1776年に制定されたアメリカの独立13州の1つ、
バージニア憲法の前文にそうした趣旨が明快に示されている。

これまで英国の王が有していたすべての憲法の権威は、社会全体の共通の利益のため
契約によって人民から由来し、人民が保持するものとなった。


わが国では「独立戦争」と呼ばれているが、アメリカでは一般的に「独立革命」と呼ばれている。
アメリカ13州の独立も一種の「革命」なのである。
つまり、横暴に振る舞った英国王に対して革命を起こし、
その主権を簒奪して人民のものとしたことを宣言したのが上の一節なのである。
さらにその背景には思想家、ジョン・ロックの思想があるのだが、
これについては後に詳述することとする。

同様に、
革命によって絶対王制を打ち倒したフランスで発せられたフランス人権宣言(第3条)をはじめ、
社会主義国家である中国(第2条)や前掲の北朝鮮(第4条)など
革命とゆかりの深い国々の憲法には軒並み国民主権が明記されている。

国王を戴く君主国でありながら国民主権を規定する憲法を最初に制定したベルギーもまた、
ナポレオン戦争後オランダの一部とされていたベルギーの人々が、
その支配に抵抗し、革命を起こして独立を果たした国である。
その際、国民会議でベルギーを君主制にするか共和制にするかの投票がおこなわれ、
君主制が選択された。
革命で国王を処刑し君主制を廃したフランスが
周囲の君主国から警戒され攻撃を受けたのと同じ轍を踏まないよう、
形の上では君主制を採ったのであろう。
つまり
「主権者となった国民が、国王を王位に就けてやったのだぞ。その恩を忘れるなよ」
という意思を、
国民主権と君主制とが同居しているベルギー憲法から読み取ることができるのである。

このように、革命を経て建国した国々にあっては、
国民主権は国家樹立の正当性を根拠づける重要な規定といえよう。

しかしそうした国々とは異なり、
わが国は革命によって他国から独立したのでもなければ、
投票で君主制を選択したのでもない。
まして国民が革命を起こして天皇をギロチンにかけて主権を簒奪したなどという
とんでもない歴史も存在しない。
わが国には、国民主権を規定しなければならないような歴史的背景など存在しないのである。


◇現憲法に国民主権が盛り込まれた経緯


そんなわが国の憲法に、なぜ国民主権が規定されることになったのか。

周知のとおり、現憲法の原案はGHQの手によって作られた。
その第1条に
「皇帝は国家の象徴であり、また人民の統一の象徴である。
彼はその地位を人民の主権意思より受け、他のいかなる源泉からもこれを受けない。」
(外務省訳・原文は文語体)
と規定されていた。

しかしこれをもとに作られた日本政府の草案では、「主権」という言葉を避け、
帝国議会に上程された時点では
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、日本国民の至高の総意に基く。」
となっていた。
これに対し、当初はGHQからも特にクレームはなく、
国内の各政党も「人民主権」を主張する共産党以外はおおむね納得していた。
社会党さえも、その憲法改正要綱では
「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」としており、
国民主権など主張していなかったのである。

ところが、衆議院本会議での各党代表による質疑応答も終わった後になってから、
GHQ側の憲法問題における中心人物、GHQ民政局員ケーディスから
憲法問題担当大臣の金森徳次郎に対し、
次のような示唆があった。

もし日本国憲法に主権在民が明記されなければ、
ソ連、欧州あたりから、ケチをつけてくることは確実であると考える。
前回の会談で貴大臣は、問題にしているのは共産党議員のみであると言われたが、
まさにその事実こそソ連がこの点を問題にしていることを裏付けるものであろう。
(4)

これに対し、あくまでも「至高」のままでよいと主張する金森が
辞職まで言明して抵抗するのをなだめすかすようにしてようやく納得させ、
自由党と進歩党の共同提案という形で国民主権が盛り込まれることになったのである。

そうしたケーディスの示唆の背景には、極東委員会の動きがあったものと考えられる。
極東委員会とは、米英中ソほか計11ヶ国(後に13ヶ国)によって構成される、
形の上ではGHQ以上の権限を有していた対日占領政策決定機関である。

衆議院本会議での集中審議が終わった後、
極東委員会が「日本の新憲法に対する基本原則」を決定した。
新憲法に盛り込むべき内容を列挙したものなのだが、
その中に「主権が人民にあることを認めるべきである。」と記されていたのである。

GHQは皇室を存続させる方針だったのに対し、
極東委員会ではソ連を中心に「天皇制廃止」を求める意見が根強かった。
その両者の妥協点として、
「皇室を存続させるとしても人民主権だけは明記しろよ」という決定がなされたのである。
そのため、これを呑まなければ極東委員会に干渉の口実を与えることとなり、
皇室の存続すら危うくなると考えたケーディスが、上記のような示唆をしたのであろう。
つまりGHQの意思もさることながら、むしろそれ以上に、
ソ連を中心とした国々の意向をにらんで盛り込まれたものといえるのである。

こうした制定過程をみれば、国民主権は、
憲法制定当時には緊急避難的に必要な規定だったといえるかもしれない。
しかしそのことは、未来永劫これを堅持しなければならない理由とはならない。

国民主権が革命とゆかりの深いものであり、
制定過程でも「天皇制廃止」を求める勢力の意向が強く働いていたことをふまえれば、
本来わが国の憲法に存在してはならない規定というべきであろう。

そして、国民主権などわざわざ明記しなくとも、
民主政治にはなんら支障をきたさないことは前述のとおりである。

存在すべきではなく、存在する必要もない国民主権を、
それでもなお、あえて堅持すべき理由などあるのだろうか。

暴力革命による「天皇制廃止」を目指す共産党が
その布石として国民主権にこだわるのなら話も分かるが、
自民党がその草案に国民主権を残置しているのはきわめて遺憾である。
いやしくも皇室の安泰を願うのならば、その存在を容認すべきではないのである。
わが国にふさわしい憲法を作ろうというのであれば、国民主権は削除すべきである。


基本的人権



◇人権(自然権)とは何なのか


人権について、国民の多くは本当に理解した上で大事なものだと思っているのだろうか。

たとえば、小学生や中学生に課せられる「人権作文」の定番のテーマとして、
いじめ問題がよく採り上げられている。
だが「弱い者をいぢめてはなりませぬ」ということなど、会津藩士の子供たちに教えられた
」(じゅうのおきて)にも書かれていることである。
会津藩では人権が尊重されていたからそのように教えられていたのだろうか。
そんなわけではあるまい。
いじめは道義的に許されないものであるがゆえに、
人権思想の存在しない会津藩でもそのように教えられていたのである。
いじめは、人権云々以前の問題なのである。
事程左様に、なんでもかんでも人権と結び付けて刷り込まれ、
大事なものだと思い込まされているだけではないのだろうか。

では、人権、あるいはこれが説かれた時代には一般的に自然権と呼ばれていた権利とは
そもそもどのようなものなのか。

中学校の公民教科書にはこう説明されている。

人権とは、人が生まれながらにして持っている人間としての権利のことです。
人間は、個人として尊重され、自由に生き、安らかな生活を送ることができなければなりません。
それを権利として保障したのが人権(基本的人権)です。

人権の保障が宣言されるまでには、人々の長年にわたる努力がありました。
国王などの権力者の支配とたたかい、自由を勝ち取っていきました。
特に近代革命のときには、人権の思想が、国王の支配を打ち破り、革命を成功させるうえで
大きな力になりました。
そのため、近代革命ののちにつくられた人権宣言や憲法では、人権が保障されました。
(5)

ここには、人権が大切なものであること、そしてその思想が革命の原動力となったことは書かれているが、なぜ人は生まれながらにしてそのような権利を有しているのか、なぜ革命の原動力となったのか、ということまで詳しくは書かれていない。

その答えが、アメリカ独立宣言の中に端的に書かれている。

われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、
その造物主によって、
生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。
こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、
政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。
そして、いかなる形態の政府であれ、
政府がこれらの目的に反するようになったときには、
人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、
人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、
人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を
有するということ、である。


造物主(=神)によって与えられたから、人は権利を保有している。
そしてその権利を確実なものとするために人は政府を樹立する。
しかしその政府がその目的を逸脱して国民を苦しめることがあれば、
これを転覆して新しい政府を樹立する権利も有している、というのである。
つまりアメリカにおける人権思想とは、唯一神の存在を前提とした思想であり、
しかも国民主権と同様、革命と親和性の高いものなのである。

ちなみに、独立宣言のこの一節と似た文章が、わが国の現憲法にも存在している。

【現憲法 第13条】
すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


こうして見比べても、現憲法がアメリカの影響を多分に受けていることがよく分かるのだが、
ともあれこのアメリカ独立宣言、そしてアメリカ経由でわが国の現憲法にも影響を与えた
思想家、ジョン・ロックの考え方を大まかに見てみたい。

ロックは、17世紀後半に活躍したイギリスの思想家である。
イギリスは当時、名誉革命
(絶対王政を目指した国王を議会がオランダへ追放し、オランダから新国王を迎えた革命)
の時代である。
ロックの主著『統治二論』は、
その名誉革命を理論的に正当化するために書かれたものともいわれている(異説あり)。

ロックは最初に、「自然状態」がどのような有様だろうかと想像してみた。
「自然状態」とは、国家はもとより、地域社会や家族のつながりさえも断ち切った、
すべての人間が個々バラバラな状態のことである。
ロックは「自然状態」を、
人それぞれが、自然法の範囲内で、他人の意思によることなく、みずからの意思で行動したり、
みずからの財産を処分したりすることのできる自由な状態であり、
なおかつ、人はみな等しく神に作られた存在である以上、
すべての者が平等な状態であると考えた。(6)

ここに「自然法」という言葉が出てくる。
「自然法」とは、神に与えられた法、つまりは神の意思のことである。
人間は全知全能の神によって作られた作品である以上、
自然状態にあっても、基本的には神の欲するように行動するものだ、と考えたのである。
つまり、国家や地域社会、家族のつながりなどなくとも、
自然法、すなわち神の意思のもと、
ある程度秩序の保たれた比較的平和な状態を「自然状態」として想定したのである。

これと対照的なのが、ロックより半世紀ほど前の思想家、
トマス・ホッブズの想定した「自然状態」である。
ホッブズの想定した「自然状態」は、「万人の万人に対する闘争」という言葉で知られている。
要するに、利己的な人間が互いに疑心暗鬼に陥り、
ついには戦争状態に至るという地獄絵図のような状態を想定したのである。
ホッブズが神さえも排除した「自然状態」を想定したのに対し、
ロックは彼自身敬虔なキリスト教徒(清教徒)だったこともあってか、
神の存在を前提とした「自然状態」を想定した。
その差異が、こうした「自然状態」のイメージの差異に現れているのである。

このように、ロックの想定した「自然状態」は、それなりに平和的なものではあるが、
中には自然法に違反する者も現れるであろう。
そうした事態にどう対処するのか。
ロックは、違反者を裁き、処罰する権利も、本来は各人が保有していると考えた。
とはいえ、
すべての人間が自然法を公正に解釈して裁くだけの見識を兼ね備えているわけではなく、
また弱者が被害を受けたような場合、
独力で加害者である強者を裁き処罰を加えることも困難であろう。
このように、自然状態における平和は不確実なものである。
そこで、それを確実なものとするため、
人々はお互いに自然権の一部、つまり違反者を裁き処罰を加える権利を放棄し、
契約によって政府を構成するのだ、とロックは考えた。いわゆる社会契約説である。

したがって、政府はその範囲内においてのみ統治権を有するのであって、
政府がその範囲を逸脱して人々を苦しめるようなことがあれば、
人々は政府の統治に抵抗し、
さらにはその政府を覆して新たな政府を作る権利も有しているのと考えた。
これを抵抗権、あるいは革命権という。
ロックは、こうして革命を正当化する理論上の根拠を与えたのである。

以上を踏まえて前掲のアメリカ独立宣言やバージニア憲法前文を見てみれば、
それらがロックの思想に則って書かれた文章であることがよくわかる。

キリスト教の土壌があり、英国王や英国議会の圧政に抗して革命を起こし、
「イギリスから独立して新国家を樹立しよう」という合意のもとに
国家を樹立したアメリカにあっては、
ロックの思想は建国の正当性を理論づけるのにうってつけの思想だったといえよう。

しかし、わが国はキリスト教文化でもなければ、革命の歴史もない。
にもかかわらず、現憲法の原案がアメリカ人の手によって作られたために、
ロックの思想、ひいてはその背後にあるキリスト教の思想が入り込んでいるのである。

たとえば、前掲の第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。」とある。

自民党草案ではこれを「全て国民は、人として尊重される。」としており、
これを問題視する主張もあるのだが、
この個人の尊重、いわゆる個人主義という考え方自体、
多分にキリスト教の思想を反映したものといえよう。

上に見たように、ロックの想定した「自然状態」は、
神の存在を前提としているがゆえに比較的平和なものであった。
それはキリスト教(とりわけ英米を中心に広く普及しているプロテスタント)という宗教自体、
きわめて個人主義的な宗教だからである。

たとえば、新約聖書の次の一節にそうしたキリスト教の性格を見ることができる。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。

(マタイによる福音書10.34)

むろん、イエス・キリストが本当に剣を手渡して戦わせたわけではない。
家族の情愛に溺れて、
イエスの教え、すなわち神への信仰をおろそかにすることがあってはならないということを
このように喩えたのである。
そのように個々人がじかに向き合うべき神が存在すればこそ、
家族さえもバラバラな「自然状態」にあっても、
神に与えられた「自然法」によって平和が保たれるはずだとロックは考えたのであろう。

しかし、わが国は一神教文化ではない。
個々人の向き合うべき唯一神の存在しないわが国における個人主義とは、
ともすれば利己主義に堕し、
その結果、神さえも取り除いたホッブズの「自然状態」に陥る危険性を
孕んだものといえるのではないのだろうか。

もとより全体主義を賛美するつもりは毛頭ないが、
全体主義が一方の極端ならば、
そうした神なき個人主義もまた、もう一方の極端といえるのではないのだろうか。

そしてこれに拍車をかけるかのように、第11条にはこう規定されている。

この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、
現在及び将来の国民に与へられる。


誰から「与へられる」のであろうか。
これが一神教の国の憲法ならば、暗黙の了解として「神」に与えられたものということになろう。
であれば、そこには神に与えられた規範、ロックのいう「自然法」に従うべき責務が伴い、
節度ある権利行使が担保されることとなるのであろう。

実際、一神教の国々の中には、
「神の創造に対する責任を自覚し」(スイス憲法前文)、
「神と人間とに対する責任を自覚し」(ドイツ憲法前文)、
「われらの主イエス・キリストに対するわれらの義務を謙虚に認識し」(アイルランド憲法前文)、
「他の者との間にキリスト教的自制、愛情および慈善を実行することは、
あらゆる者の相互の義務である」
(バージニア権利章典第16条)など、
神に対する義務や責任を憲法上明記する国もある。

しかし、わが国における「天賦人権」の「天」とは一体何者なのか。
「天賦人権」を大事なものだと主張する人々は、明快に答えられるのだろうか。

このようなわが国に似つかわしくない規定のために、
「誰がくれたのか分からないけど、もらったものは使わなきゃ損」
とばかり浅ましい乞食根性で、何者にも責任を負うことなく、
わがままを「人権」のベールに包んで声高に叫んだ者勝ちという、
剣を権利に持ち替えた「万人の万人に対する闘争」の様相を
呈しつつあるのではないのだろうか。

また、第97条にはこうある。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、
人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、
これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、
侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


わが国には自由獲得のため戦った歴史、つまり革命の歴史など存在しない。
なのになぜこのように革命を賛美するかのような規定など置く必要があるのだろうか。
我々日本国民は、革命を戦った国々のおこぼれにあずかって
権利を享受しているだけなのであろうか。
もっとも、GHQが原案を起草したことを踏まえれば、
案外、本当にそうした劣等感を日本国民に植え付け、
「革命によって自由と権利を勝ち取り、日本国民にも与えてくれたアメリカ」
への恩義を抱かせるためにこのような規定を置いたのかもしれない。

余談ながら、
第11条と第97条、内容の重複する条文が盛り込まれた背景には、制定時のエピソードがある。

もともとGHQから提示された草案では、現憲法の第97条にあたる条文が、
第3章(国民の権利及び義務)の最初のほうに置かれていた。
その条文は、第97条よりもさらにクドクドと長ったらしいものだったのだが、
わが国には法律の条文は簡潔に書くべきものだとする風潮があったため、
GHQ草案をもとに作成された政府案では、それを大幅にカットし、要約して、
他の条文の中に組み込まれた。
それが、現憲法の第11条となっている条文である。
ところが、GHQ民政局のケーディスから、
この条文は民政局長のホイットニーが自ら筆を執ったご自慢のものなので
なんとか入れてもらえないか、と懇願されたため、
結局、第3章とは場所を変えて、第10章(最高法規)に入れられることになった。(7)

つまり、第97条は、
GHQのお偉いさんのご機嫌取りのために盛り込まれた条文なのである。
そう考えると、同条もある意味では、
現憲法がGHQの意思で作られた「押しつけ憲法」であることを象徴する条文の一つと
いうことができよう。

それはさておき、
このように、唯一神を前提とし、革命を正当化したロックの天賦人権思想が、
キリスト教文化ではなく、革命の歴史もないわが国の現憲法の基盤となっているのである。

自由や生命、身体、財産などを不当に侵害された際に、
その不当性を訴えて回復を図る根拠となる「権利」という概念自体は必要であるにせよ、
それは上に見たようなイデオロギーを含んだ天賦人権でなければならないのだろうか。
天賦人権思想が唯一絶対のものなのであろうか。

そこで次に、天賦人権思想を採っていない国の例として、
イギリスにおける権利についての考え方を見てみたい。


◇イギリスにおける「臣民の権利」


イギリス国民に保障されているのは、天賦人権ではない。
たとえば1689年、名誉革命の際にイギリスで制定された「権利の章典」は、
人権思想史のなかでも重要な位置を占めるものであるが、その正式名称を
「臣民の権利と自由を宣言し、かつ王位の継承を定める法律」
(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown)という。
この権利の章典は過去のものではなく、
現在もなお、「マグナ・カルタ」(1215年)や「権利の請願」(1628年)などと並ぶ
イギリスの「非成典化憲法」を構成する重要な法源の一つとなっている。
つまりイギリス国民に保障されているのは、人権(human rights)ではなく
臣民(the Subject)の権利なのだが、
それを理由にイギリスにおける権利保障が他国に比べて劣っているとする評価など
寡聞にして聞いたことがない。
前述の「民主主義指数」の調査項目の一つ、「市民の自由」(Civil Liberties)のポイントを見ても、
イギリスはわが国を上回っている(イギリス=9.12、日本=8.82)。

イギリスでは、自由や権利は祖先からの「相続財産」と考えられている。
たとえば、権利の請願の一節
「陛下の臣民は、議会の一般的承諾に基づいて定められたのでない限り、
税金、賦課金、援助金、その他同種の負担の支払いを強制されることはない、
という自由をうけついでいるのである。」
との文言にそうした思想が垣間見られる。

いまのウィンザー朝に至るイギリス王室の起源は、
1066年、フランス北部のノルマン人(バイキング)が
イングランド島に侵攻して打ち立てたノルマン朝に遡る。
イギリス原住のアングロサクソンではないのである。
この外来の国王が横暴にふるまった際に、
アングロサクソンの貴族が集結して国王に詰め寄り、
イングランド古来の慣習にもとづく権利を認めさせたのがマグナ・カルタである。

そして権利の請願も
マグナ・カルタをはじめとする古来の法や慣習に基づく権利を国王に認めさせたものであり、
権利の章典も、
「古来からの権利と自由を擁護し、主張するため」(権利の章典の一節)のものである。

国王が古来の法に違背するたびに古来の権利を国王に認めさせ、
それと引き換えに国王に対して忠誠を誓うという均衡の中で、
臣民の権利は、王室の安泰と不離一体のものとして確固たるものとなっていったのである。
そして時代とともに元来貴族のものであった権利は民衆へと広まっていった。
臣民の権利は、そうした歴史の中で権利を確立してきた祖先からの「相続財産」なのである。

こうして現実の歴史の中で権利を確立してきたイギリスにあっては
「人は生まれながらに侵すことのできない権利を神から与えられている……ということにしよう」
などというフィクションなど、わざわざ持ち込む必要はないのである。
天賦人権という架空の権利など、臣民の権利という相続財産に比べれば、
なんら価値のないものといえよう。
ロックが名誉革命を正当化する理論的根拠を打ち立てたにもかかわらず、
現実社会の名誉革命後のイギリスは、
ロックの唱えた天賦人権思想に飛びついたわけではないのである。


◇大日本帝国憲法の「臣民の権利」についての謬説を駁す


わが国でも、大日本帝国憲法(以下、帝国憲法)では天賦人権思想は採られなかった。
では、帝国憲法における「臣民の権利」とはどのようなものであったのか。
その内容に立ち入るに先立ち、
まずは学校教育等で一般に流布されている帝国憲法に対する偏見を払拭しておきたい。

たとえば中学校の教科書では、帝国憲法における権利規定についてこう記述されている。

国民は臣民とよばれ、さまざまな権利が保障されたものの、
それらは治安と秩序の維持をさまたげない、臣民としての義務に反しない、
法律の定める範囲内など、さまざまな制約があった。
(8)

このように、帝国憲法における権利規定が
きわめて制限的だったかのように印象づける記述が、
この教科書のみならず他の教科書にも多く見られる。

なぜこのように、帝国憲法の権利規定が制限的だったかのように記述されているのか。
帝国憲法と現憲法、たとえば表現の自由に関する条文を見比べればその理由が分かる。

【帝国憲法 第29条】
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

【現憲法 第21条】
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

帝国憲法の権利規定の多くには、
傍点のように「法律ノ範囲内ニ於テ」といった文言が付されていた。
一方、現憲法にはそうした文言は付されていない。
このように、自由や権利を法律の範囲内においてのみ保障するという制限のことを、
法律用語で「法律の留保」というのだが、
この「法律の留保」の文言の有無の差を捉えて、
帝国憲法では現憲法に比べて権利保障がきわめて制限的だったかのように
記述されているのである。

では、なぜ現憲法には存在していない「法律の留保」が、
帝国憲法には存在していたのだろうか。
憲法学の権威として名高い芦部信喜著『憲法』、いわゆる『芦部憲法』には、
帝国憲法の権利条項についてこう解説されている。

権利・自由は保障されてはいたものの、それは人間が生まれながらにもっている
生来の自然権(人権)を確認するという形のものではなく、
天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)であった。
各権利が「法律の留保」をともなうもの、すなわち、
「法律の範囲内において」保障されたにすぎず法律によれば制限が可能なもの、であったのは、
そのためである。
(9)

帝国憲法で保障されていた権利は、
天皇の恩恵で与えられたにすぎない「臣民の権利」だったから
「法律の留保」が認められていた、
逆にいえば、
現憲法で保障されているのは、
人が生来保有している「人権」だから「法律の留保」が認められていない、
というのである。
この見解が、通説的見解として、上掲の教科書の記述にも反映されているのである。

しかしながら、教科書に書かれているような制約はごく当たり前のことであろう。
現憲法下でも、治安と秩序を破壊し、国民の義務を果たさず、
法律を逸脱した権利行使など認められてはいない。
たとえば信教の自由は保障されていても、オウム真理教のように
教義に基づいてテロを起こし人を殺傷するなど当然認められるものではない。
イスラム教では一夫多妻が認められているが、
わが国では重婚罪という法律によって制限されている。
表現の自由は保障されていても、
諸外国に対する怒りをその国旗を燃やすことで表現すれば外国国章損壊罪という犯罪となる。
さらに、平成28(2016)年に成立したいわゆる「ヘイトスピーチ対策法」など、
まさに法律による表現の自由の制限そのものである。

むろん必要以上に自由や権利を不当に制限することは許されるものではないが、
権利が法律によって一定程度の制約を受け、その範囲内において保障されるなど、
「法律の留保」の明記されていない現憲法下においてもごく当たり前のことなのである。

そもそも「法律の留保」は帝国憲法特有のものではない。
世界人権宣言や国際人権規約、世界各国の憲法を見てみれば、現在でも数多く存在する。

【世界人権宣言 第29条2項】
すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、
他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに
民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことを
もっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。


【国際人権規約(B規約) 第19条3項】
(表現の自由に関する)権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。
したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。
ただし、その制限は、法律によって定められ、
かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
(a)他の者の権利又は信用の尊重
(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護


【フランス人権宣言 第4条】
自由は、他人を害しないすべてのことをなしうることに存する。
したがって各人の自然権の行使は、
社会の他の構成員にこれらと同一の権利の共有を確保すること以外の限界を持たない。
これらの限界は、法律によらなければ定めることができない。


【ドイツ基本法 第5条2項】
(表現の自由に関する)権利は、一般の法律の規定、少年保護のための法律上の規定
及び個人的名誉権によって、制限される。


【スイス憲法 第36条】
基本権の制限には、法律の根拠を必要とする。
重大な制限については、法律自身で定めなければならない。
重大かつ急迫の危険であって、
他の方法では回避することができないものの場合は、例外とする。


【カナダ憲法 第1条】
カナダの権利と自由の章典は、自由で民主的な社会において明確に正当化できる、
法律によって定められた合理的制限の枠内において、
同章典に列挙された権利および自由を保障する。


こうして見れば「法律の留保」はむしろ「グローバルスタンダード」といえよう。
帝国憲法が特に制限的だったわけではないのである。

そもそも「法律の留保」は、権利がけっして無制限のものではなく、
一定程度の制約を伴うことを前提として、
ただしその制約は、行政機関による恣意的なものであってはならず、
国民の代表機関たる議会を通じて法律によって定めなければならない、
という趣旨のものである。
つまり、国民の権利を守るための「法律の留保」なのであって、
それゆえ、こんにちでも数多くの国々に当たり前のように存在しているのである。

ただ、アメリカはその例外で、
英国議会の制定する法律に反発して独立した歴史的経緯から
伝統的に議会に対する不信感が根強く、
宗教的行為の自由や言論出版の自由などを法律で制限してはならないと
憲法上明記されている(修正第1条)。

現憲法は、そのアメリカ人が原案を起草したために「法律の留保」が付されていない。
ただそれだけのことである。
けっして人権保障を規定する国々の憲法に普遍的なことではないのである。

「法律の留保」を「臣民権」であるがゆえのものと因果関連づけ、
それを捉えて帝国憲法における権利保障がきわめて制限的だったかのように印象づける
『芦部憲法』の記述は、全くトンチンカンなものなのである。


◇わが国の伝統文化に根差していた帝国憲法の臣民の権利


では、帝国憲法における「臣民の権利」は、『芦部憲法』に書かれているように
「天皇が臣民に恩恵として与えたもの」だったのだろうか。
帝国憲法の上諭(天皇が裁可したことを示すために付される公布文)に次の一節がある。

朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ
此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
(朕はわが臣民の権利および財産の安全を貴び重んじ、これを保護し、
この憲法および法律の範囲内において完全に享有することができるよう宣言する。)

つまり、臣民がもともと権利を有していることを前提として、
これを尊重し、保護することを宣言したものといえよう。
「天皇が臣民に恩恵として与えた」とするニュアンスなど感じられない。
この記述もやはり、帝国憲法を貶めるための悪質なデマなのである。

むろん権利という概念が昔からわが国に存在したわけではない。
近代になって西洋から伝わったものであることは紛うことなき歴史的事実ではあるが、
それよりずっと以前から、わが国には古来、
天皇は民衆を「おおみたから」として尊重する伝統があった。
初代神武天皇が橿原に都を開かれた際に発せられた「建国の詔」の一節にもこうある。

(いやし)くも(たみ)(かが)()らば、(ひじり)(わざ)(たが)はむ。
且当(まさ)山林(やまはやし)(ひら)ひ、宮室(おおみや)経営(おさめつく)りて、
(つつし)みて宝位(たかみくら)(のぞ)みて、元元(おおみたから)(しづ)むべし。

(およそ民衆のためになるならば、なぜ聖人の行いとして誤ってなどいようか。
いまこそ山林を切り開き、宮室を造営し、
謹んで皇位に就き、国の宝である民衆を安んじよう。)

日本という国が誕生した当初から、天皇は民衆を大切にすることを誓われたのである。
そして歴代、この意志が受け継がれてきた。
たとえば、民衆の家々から炊煙の上がっていないのをご覧になった仁徳天皇が
民衆の困窮を懸念され、6年間にわたって租税や労役を免除し、
御自身雨漏りのする宮殿に住まわれた話などよく知られている。
また戦国時代の天皇は、即位の礼や大喪の礼もままならないほど困窮を極めたが、
そんな中でも、疫病が起これば諸寺に般若心経をお納めになるなど、
常に民生の安寧を祈願されたのである。

そして近代に至り、権利という舶来の新しい概念を導入するにあたって、
そうした伝統のなかに権利の淵源を見出し、
民衆の権利を尊重することが上諭で宣言されたのである。
伊藤博文による憲法の逐条解説書『憲法義解』にもこうある。

思うに、天皇は臣民を国の宝として愛重し、臣民は大君に服従し自らを幸福な臣民だと思う。
これはわが国の故事や旧習にあるものであって、本章に掲げる臣民の権利義務もまた、
そうした故事・旧習に源流を有するものにほかならない。
(10)(原文は文語体)

つまり、
君民対立の歴史の中で権利を確立してきたイギリスとはその来歴こそ全く異にするものの、
イギリスにおける臣民の権利と同様、
君民互恵というわが国の歴史と伝統文化に根差した権利ということができるのである。

なぜそれをあえて捨てて、
わざわざわが国とは縁もゆかりもない西洋の思想家の頭の中で発明された
天賦人権という架空の権利にすがる必要などあるのだろうか。
絶対王政の時代、民衆を大切にする国王に恵まれなかったがゆえに、
これに対抗すべく天賦人権というフィクションが生み出されたのであれば、
天皇が民衆を大切にする伝統文化のわが国において、
そのようなフィクションなど、わざわざ持ち込む必要などあるのだろうか。

そもそも、憲法というものは、
ただ美辞麗句を並べて立派な文章を書けばいいというものではなく、
その国の国情をふまえたものでなければ、
それは木に竹を接ぐようなもの、砂上に楼閣を築くようなもので、
その国の憲法として定着するのは難しいものである。

たとえば、わが国よりも一足早く
1876年にアジア最初の近代的憲法として制定されたオスマン帝国憲法は、
わずか1年あまりで憲法停止となっている。

その原因の一つに、
「すべての帝国臣民はオスマン人と称され、信教によって差別されることはない。」(第8条)
という規定がある。
いまの我々の感覚からすれば至極まっとうな規定だが、
これがイスラムの伝統に反するとして反発を受けたのである。

オスマンはムスリム(イスラム教徒)を中心とした国ではあったが、
異教徒も人頭税などの義務を果たすことで信教の自由が保護されており、
「不平等」を前提に長らく穏やかに共存する多民族・多宗教国家であった。

しかし19世紀以降、キリスト教諸国からの圧力を受けて、
人頭税廃止などの「平等化」が徐々に進められていたのだが、
それとともに、ムスリムと非ムスリムとの間に軋轢が生じていた。
ムスリムの視点からは、「平等化」は「非ムスリムへの特権付与」にほかならなかったのである。
そんな中、憲法に平等を明記したことで不満が爆発したのである。

そしてスルタン(君主)もまた、
議会によって権力が制限されるのを苦々しく思っていたことから、
結局、非常事態(露土戦争)を口実に、憲法の停止を命じ、
開設されたばかりの議会は閉鎖され、
憲法制定の中心人物であったミドハト・パシャは
「危険人物」として国外追放された挙げ句、殺害された。
そしてその後30年間にわたり憲政が行われることなく、
スルタンによる専制政治が行われることとなった。

明治期のわが国以上に切迫した状況にあって性急なのもやむを得なかったのだが、
それまでの伝統文化になかった新しい制度や概念を取り入れる際、あまりに性急に過ぎれば、
このように拒絶反応を惹き起こして憲法が機能不全に陥ってしまいかねないのである。

そうしたオスマン帝国憲法の顛末も念頭にあったのであろうわが国の帝国憲法の起草者が、
「権利」や「立憲体制」といった西洋生まれの概念や政治体制を
ストレートに導入するのではなく、
日本の国情を考慮しつつアレンジして導入し定着させた業績は賞賛に値するものなのである。
かつて日本古来の神道を保持しつつ外来の仏教をも受け容れた神仏習合の叡智が、
ここでも発揮されたといえるのかもしれない。

そうした事情を熟知する識者は、帝国憲法を高く評価している。

【ハーバード・スペンサー(イギリス・社会学者)】
日本の憲法は、日本古来の歴史習慣をもとに、漸進保守の立場で起草されたとか。
それならば、この憲法は私の最も賛成するところである。
(11)(原文は文語体)

【オリバー・ウェンデル・ホームズ(アメリカ・後に連邦最高裁判事)】
この憲法について私が最も評価しているのは、
日本の憲法の根本を日本古来の歴史、制度、習慣を基にして、
その上で、欧米の憲法学の論理を適用してこれを修飾している点である。
(12)(原文は文語体)

【ローレンツ・フォン・シュタイン(ドイツ・法学者)】
特に憲法発布の告文と勅語とを憲法の一部分として発表されたのは実に妙案である。
なぜなら、このことで、
皇室と臣民との関係が緊密であることが疑う余地のない事実であること、
そして陛下の真摯なる御決断をもって憲法を恵贈された御心とが明らかとなり、
末永い君民の穏和を確固たるものとするのに足るものであるのみならず、
告文と勅語の存在することそれ自体によって、
この憲法というものが日本のために大切なものなのだという感情を
喚起させられるからである。
(13)(原文は文語体)

帝国憲法に対する外国人評といえば、
憲法の内容も知らないまま憲法発布のお祭り騒ぎに興じる日本人の様子を揶揄した
「ベルツの日記」ばかりが教科書等で採り上げられるが、
ベルツ以上に憲法に精通した識者は、このように帝国憲法を高く評価しているのである。
「明治憲法は、立憲主義憲法とは言うものの、
神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法であった」
(14) などと、
字面のみをとらえて西洋諸国の憲法との差異をあげつらい揶揄する
『芦部憲法』のごとき評価もまた、あまりにも浅薄皮相なものといえよう。

世界には、
多様な宗教があり、多様な歴史があり、その中で育まれた多様な伝統文化があり、
それに慣れ親しんで生きる多様な人々がいる。
権利というものが人を幸せにするためにあるのであれば、
権利のありようもまたそれに応じて多様であってしかるべきなのではなかろうか。

封建社会と決別して、近代化への歩みを始めたばかりのわが国の憲法の中に、
わが国の国情から全く乖離した、こんにちもなお真の意味で定着したとは言い難い
天賦人権思想など持ち込んだところで、
果たして国民の保護に資するものとなったのであろうか。
むしろ
「天皇が民衆を大切にする大御心に従って、為政者も民衆を大切にしなければならない」
と考えたほうが、よほど国民の権利保障に資するのではないのだろうか。

「ヤハウェの恩寵」による権利もあれば、
「アラーの慈悲」による権利もあれば、
「御仏の御加護」による権利もあってしかるべきなのである。
イギリスはイギリスの歴史に根差した独自の権利を確立してきた。
わが国もまた、わが国の伝統文化に根差した独自の権利を確立し、
権利という舶来の新しい概念をわが国に根付かせようと努めた。
帝国憲法における臣民の権利とは、そうしたものだったのである。


◇憲法改正私案


以上、帝国憲法を肯定的に論じてきたが、
しかしながら、一部で説かれているような、
現憲法を無効のものとし、帝国憲法が現在も有効だとする説、
いわゆる現憲法無効論にはにわかには賛同しがたい。

たとえ法理論上正しい主張であったとしても、
たとえば「臣民」という言葉にマイナスイメージを植え付けられている現状でこれを復活させ、
権利保障についても上記のような天皇との関係性を前面に押し出し過ぎれば、
国民の間に拒絶反応を惹き起こし、
その反動から、ついには皇室の存続をも危うくしかねないのではなかろうか。

遺憾ながらもGHQに押し付けられた憲法に一切手を付けることなく
70年間その下で過ごしてきた現状を踏まえつつ、
現在の国民にもさほど抵抗なく受け容れられ、
なおかつわが国にふさわしい憲法のあり方を模索すべきではなかろうかと考えるものである。

では、わが国の憲法における権利規定はどのよううなものであるべきだろうか。
僭越ながら、憲法改正案を一つだけ提案させていただきたい。

私見としては、
現憲法第97条に用いられている「信託」という言葉自体は
けっして悪いものではないと考えている。
信託とは、文字通り「信じて託す」、
つまり権利や財産を持っている「委託者」が、
それを信頼できる「受託者」に預けて運用させ、利益を上げさせて、
その利益を「受益者」に還元させる、というものである。
すなわち、権利が我々に信託されたということは、
「受託者」である我々はけっしてこれを恣意的に濫用してはならないのであって、
常に「委託者」や「受益者」のことを念頭に置かなければならないという
責任を伴っていることになるのである。

ただ現憲法では、それが誰から信託されたものなのかが明確ではない。
「人類の多年にわたる自由獲得の努力」をしてきた先人からの信託と
読むこともできなくはないが、
再三述べたとおり、わが国には自由獲得のための闘争の歴史など存在しない。
そしてアメリカ国民はアメリカ国民自身のためにアメリカ独立革命を戦い、
フランス国民はフランス国民自身のためにフランス革命を戦ったのであって、
日本など国の存在すら知らなかったであろう。
そんなアメリカやフランスの革命を戦った先人が
我々日本国民を信頼して権利を託したなどとは、あまりにも荒唐無稽というほかあるまい。
そこで、重複する第11条と第97条を統合し、次のように改正することを提案したい。

この憲法が国民に保障する権利は、我々の祖先並びに子孫より信託されたものである。

実のところ、この私案は、フランス革命期のイギリスの政治家、
エドマンド・バーク著『フランス革命についての省察』に着想を得たものである。

前述のように、イギリスでは自由や権利は祖先からの「相続財産」と考えられてきた。
であるがゆえに、ともすれば放縦に走りかねない自由というものが、
常に祖先の面前にあるかのように行動しなければならないという節度を与えられることとなり、
その自由は、堂々として荘厳な容貌を持った「高貴な自由」になるのだ、
というのがバークの考え方である。(15)

そうした考え方は、「ご先祖様」を大切にする我々日本人の根底にある宗教観にも
相通じるものがあるのではなかろうか。

「ご先祖様のおかげで、私たちはこの世に生を享けることができた。
そして、私たちがよりよい生活を送れるよう、命と一緒に権利も与えて下さった。
しかしそれは、けっして私たちの放蕩のためではなく、
後に続く子々孫々のこともしっかり考えて大事に扱わなければならない」
と思えば、おのずと背筋も伸びる思いがする。

自民党草案は
「天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直しました」(16) というものの、
その第11条を見てみれば、結局のところ、
若干残っているキリスト教的色彩の残滓(前述の「与へられる」)を取り除いただけの
「無宗教の天賦人権」でしかなく、
「誰がくれたのか分からない人権」である本質に何ら変わりはない。
わが国にふさわしい憲法にしようというのであれば、
そうしたわが国の宗教観も考慮すべきではなかろうか。

そもそも、そのような宗教観を別としても、
いま我々が権利を享受できるのが祖先のおかげだということは、
歴史的な事実ということもできるのではなかろうか。

憲法上立派な権利規定を掲げる国は多々あるが、
たとえば中国憲法(第36条)に謳われている信教の自由は保護されず、
北朝鮮憲法(第67条)に謳われている言論の自由は保護されていない。
紛争の絶えない中東やアフリカの無政府地域などなおさらである。
憲法がただの飾りでしかない国が数多く存在しているのが実情である。

憲法は国家統治の基本法といわれるが、
立派な憲法さえ制定すればその憲法の思い描くとおりの立派な国が
自動的に出来上がるわけではない。
そして、その中に権利規定を書き込みさえすれば、
自動的にその国の国民の権利が保護されるようになるわけでもない。

こんにち我々日本国民が権利を主張することができ、それが現実に保護されているのは、
たかが天賦人権などというイデオロギーごときの成果ではない。
日本という平和で豊かな安定した立憲国家があればこそ、
権利を現実のものとして享受できるのであり、
ひいては、悠遠なる太古よりわが国に君臨し、
国家の安泰と民生の安寧とを日々祈り続けてきた
歴代天皇をいわば「心柱」として、
幾多の試練に直面しながらもこれを乗り越え、
こんにちの日本を営々と築き上げてきた我々日本国民の先人の労苦の賜物なのである。

『芦部憲法』に代表される左翼系の憲法学では、国家を悪玉とみなし、
自由を守るためには国家権力を縛ることが大事だということばかりが繰り返し強調される。
革命の時代に発明された天賦人権を中心に据え、
これに辻褄を合わせるように憲法体系を構築しているがゆえであろうが、
しかしながらそれは、いうなれば、親に保護されていることも知らずに、
口うるさい親をやっつければ自由になれると勘違いしている、
反抗期の子供のごとき幼稚な国家観というべきものである。

先人の守り育ててくれた日本という国に保護されて、
いま我々は権利を現実のものとして享受することができるのである。
そして、いま生きる我々もまた、
日本をよりよい国にして後裔へと引き渡すべき責務をけっして忘れるべきではなかろう。

そうした祖先への感謝と、子孫に対する責務とを思い起こさせるよすがとして、
そしてわが国の宗教観、歴史、伝統文化、和を貴ぶ国民性、いずれからも乖離した、
君民敵対する血塗られた憎悪の時代の寵児たる「天賦人権」に対するアンチテーゼとして、
上記憲法改正私案を提案するものである。

                                                      以上


(1)  東京書籍 中学公民 p40
(2)  https://en.wikipedia.org/wiki/Democracy_Index#Democracy_Index_by_ country_.282016.29
(3)  ジャン・ボダン『国家論』(フランス・ルネサンス文学集1)p177参照
(4)  西修『ドキュメント日本国憲法』p303
(5)  日本書籍 中学公民 p34
(6)  ジョン・ロック『統治二論』(世界の名著)p194参照
(7)  西修『ドキュメント日本国憲法』p236237参照
(8)  清水書院 中学公民 p30
(9)  芦部信喜『憲法(第六版)』p1920
(10) 伊藤博文『憲法義解』p36
(11) 八木秀次『明治憲法の思想』p243244
(12) 伊藤哲夫『明治憲法の真実』p179
(13) 伊藤哲夫 p178179
(14) 芦部信喜 p18
(15) エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』(世界の名著)p91参照
(16) 自由民主党『日本国憲法改正草案Q&A(増補版)』p3

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