大東亜戦争はまだ続いている
(平成21年)

針生 俊

核持込みの密約問題が、かまびすしい。国民も本当はあったに決まっていると思っている。
今も政府は米兵一人あたり千数百万の駐留費と数々の特権を与え続けている。簡単にいえば、ヤクザのみかじめ料と変わらない。
政府はおもいやり予算と称し、こちらに主導権があるように国民に見せかけているが、これも欺瞞である。脅しに屈した商人政府のソデの下が実態だ。

沖縄は37年前の返還以来だけでも、五千件の殺人・強盗・放火・暴行等の米軍犯罪にさらされている。これに未申告の強盗等も含めれば、天文学的になるだろう。(いわんや復帰以前の沖縄の酸鼻は筆舌に尽せぬものである。)
それも地位協定とやらで裁判権すらない。明治期の不平等条約下の治外法権と同じだ。

日本人はかつて父祖が戦った敵、同胞が焼き殺された敵その者に、実質上か形而上か知らぬが、生命と財産を「守られている」という構造の上で現実を生きている。その構造そのものが「日本人の自尊心に刺さったトゲ」(江藤淳『この世界が終ったとき』)であることを自覚し、この多分に統合失調症的な自己矛盾の解消を目指さぬかぎり、日本の「戦後」は終りはしない。

「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。常に人を恐れ人にへつらう者は次第にこれに慣れ、その面の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえみればただ腰を屈するのみ。」(福沢諭吉・学問のすすめ)

己の国は己で守る。たとえ少しは貧しくなろうとも、周辺と気まずくなろうともだ。
自分の国を自分で守ることに何の非があろう。正正堂堂と行えばいいのである。
自らの生殺与奪の権を、他人に引き渡したまま安穏としている者は、火宅の譬の幼児の如く、燃え盛る家の中で与えられた玩具に戯れているだけなのではないか。

「国に自主の態度と自立の目標のない時、国の青春はその陰惨の相を帯びるに至るのである。わが民族の青春はそういう時代と雰囲気になじんではならない、敗れてはならない。」(保田與重郎)

米国の占領政策によって、国に自主の精神がなくなった悲劇の例は、隣国フィリピンにある。
日本人の戦いは、我々の心の中に戦場を移して、今も戦われている。大東亜戦争はまだ続いているのである。

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