日本文明 生死の分水嶺
(平成23年)

針生 俊

自然界の圧倒的猛威は、改めて我々に人間の非力さを教え、忍従を強いる。我が国は世界的にも地震、台風等の自然災害の極めて多い国である。しかしこの苛酷な風土こそが、日本人の国民性とその死生観に独自な特徴を与えてきた。
日本人は自然を前にして、熱帯的な非戦闘的諦めでもなく、寒帯的な気の長い辛抱強さでもない、突発的、戦闘的な(決して消極的でない)あきらめに達するのである。

これを台風的忍従性と呼ぶことができる。その気質は桜の花に象徴される。それは急激に咲きそろうが、執拗に咲き続けることなく、あわただしく恬淡に散り去る。その最も顕著な現象は淡白に命を捨てるということである。この戦闘的恬淡性に根ざした気質から、特有の貴さの尊重という価値観が生まれてくる。

勇気は貴く美しく、怯懦は卑しく穢い。
しかし単なる強剛は醜く、残虐は極度に醜である(欧米や支那などがそうだ)。
なぜならそこには執拗な利己的欲望が存するからである。勇気の貴さは自己を空しゅうする所(自己放下)に存する。高貴か卑しいかが命よりも重大な価値であった。国民性の精華としての武士道の根本精神は恥を知ること、すなわち卑しさ(卑怯、卑劣、卑屈)を恥じることであり、その為には平然と命を投げ捨てる(放下)ことであった。
(―和辻哲郎の古典、風土の私なりの要約―)

ここにおいて初めて日本の苛酷な自然と、そこでこそ培われた独自の民族性(これが独立文明の根拠である)を共に全肯定するという、雄々しき運命愛ともいうべき高みへと、我々の自己認識は導かれる。

「我々が日本人であることは運命であるが、それはそのままに使命である。日本人であることの自覚によって、人道に寄与し得る事実を知ったのである。」(保田與重郎)

そしてこの独自な戦闘的自己放下(自己犠牲といってもいい)に最高の価値を置く国民性なくして、アジア革命への無私な挺身や、その帰結としての大東亜戦争は解明できないのである。

第二次大戦を全体主義(ファシズム)と自由主義陣営との闘い(もっとも連合国側にソ連が入っている時点で破たんしているが)であるという独断は、アジアでは通用しない。その西半分、欧州での戦いは、同じ文明間の覇権争いに過ぎず、大東亜戦争とはその本質と次元を根本的に異にしている。独伊との同盟など、めまぐるしく変わる国際力学上、たまたま成った合従連衡の産物である。これが文明論的解釈である。

更には先発(欧米)後発(日本)両帝国主義間の戦いであり、一日の長がある先発組が勝ったという、矮小化した解釈が保守の識者の中にも罷り通っているが、ベンサム流英米功利主義に毒された、心理の深層において現状維持に傾く自己を、納得させようと苦労する自慰的な解釈である。
和魂を失った、かかる人々は、保守はおろか、日本人ですら最早ないのかもしれない。

この大災厄の中でも、見え透いたトモダチ作戦などに騙されて。
債務不履行間際の米国債には、一切手をつけられず、思いやり予算までそのままに、金を踏み倒されても貢ぎ続ける国は、日本だけだろう。

「日本は出稼ぎ一旗組の夢の国だ。入国するのは厄介だが、入国してしまいさえすれば、度胸と想像力とアメリカの軍服さえ持っていれば、後は彼を制限するのは大空だけだ。獲物は史上最大のものの一つだ。アメリカ巨大産業、金融機関の代表たちは顔を揃え、あるいは陰から糸を引っぱっている。現代一旗組は日本経済に対する支配を欲している。現在国有のあるものを、もう一度私企業に還元しようとして、公的地位を利用している者もある。」
(マーク・ゲイン ニッポン日記)

これは占領一年目の日本の姿だが、今の日本の原版がここにある。
福島原発の炉は米国GE社製であり、電力棟を海側に作ったのも米側である。彼等に製造責任があるのは明白であるにもかかわらず、マスコミ以下一切追及しないのは、憲法前文同様の心理に拘束された、国内にしか犯人探しができない、自閉的精神構造の縮図である。

震災を利用して、日本人をないがしろにした復興策が進んでいる。外国勢と手を組んだ、無責任な政治家が画策している。
今、日本は岐路に立っている。我々に日本人の自覚を迫っている。戦後の堕落した日本人に訣別した祖国を取り戻すことを、和魂は求めているのである。

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