戦後はまだ終わらない
(平成18年)

堀岡 忠敏

「もう戦後ではない」と言われて幾久しい。
「もう戦後ではない」というこの言葉は、再建への歩みが、朝鮮動乱による特需景気が誘い水となってその緒につき、奇跡的復興を成し遂げ、それが戦後の産業経済発展の原動力となり、やがて昭和39年には東京オリンピックが開催され、戦後20年足らずして驚異的発展をもたらし、「消費は美徳」といった誤った価値観を醸しつつ、順風満帆、経済大国の道への第一歩を、確信をもって力強く踏み出した。どうもこの辺りから日本人の心の中は我欲一辺倒となり、自己中心的となって、国家意識は次第に薄れ、そんな思いの中で、今次大戦への思いもまた日々その影を潜めつつ、「もう戦後ではない」という思いが急速に頭をもたげてきたのではなかろうか。

しかしながら、今次大戦に際会し、殉国の尊い人柱となられた極めて数多くの方々の御遺族の皆様にとって、生かる限り、心情的に「戦後は終わらない」のは当然のことである。
大正の世代に生を享け、私たちが一途に学んだ国家非常の時代、即ち私が学んだ昭和9年4月から昭和14年3月に至る五星霜こそ、師弟の絆は固く、思いを一つに逞しく学び通した、世はまさに激動の時代であった。

因みに、5年間に惹き起こされた歴史的に重大な足跡を辿ってみても、私たちの入学1カ月前の昭和9年3月1日に満洲国の独立帝政が実施され、その12月にワシントン条約を破棄、そしてその翌月に二・二六事件が勃発、翌昭和十二年七月七日、北京郊外で中国共産党謀略による日支両軍が衝突(所謂、盧溝橋事件)、その不拡大方針も空しく、これが支那事変の端緒となって拡大の一途を辿り、遂に昭和13年4月1日、国家総動員法が発布された。

この国家非常の環境下での五年間は、日々緊張の連続であったが、私たちは当時の青年らしく、やがて自分達も国の危難に立ち向かう第一線の防人たらんとする憂国の至情を内に秘め、教練に学業に一途に青春の血を燃やし、卒業三年後、青春真っ只中に大東亜戦争に際会し、「みたみわれ生けるしるしあり」と、国を愛する成年の純粋な感動をもって、勇躍銃を執り、国家の危難に体当たりしながら、死所を得ることなく復員し、現在に生きる私にとっても「戦後はまだ終わらない」 ― この思いは一身を一途に祖国に捧げた戦友各位への思いであり、英霊への鎮魂の叫びに他ならない。
この壊された日本をこのままにしては英霊に申し訳なく死んでも死に切れぬ思ひであり、尊く素晴らしい祖国が本然の姿に帰るまで戦後は終わらない。


HOME