公(おおやけ)を知らぬ亡国の民
(平成18年)

大東亜青年塾副塾長

上谷 親夫

一国の総理であり、最大与党自由民主党総裁である小泉純一郎は、今までもそうであったが、あと残すところ幾許となった現在、自らの地位を、専ら「愉しんで」いる。
あと何日と、数える程の在任期間となって、何をあたふたと各地の視察に出かけなければならないのか。それも憲法、教育基本法をはじめ積み残しの法案を、山の様に抱えながらである。

「立法の事は衆議院にまかせ」の態度が露骨である。なるほど小泉は、行政府の総理であるかもしれない。しかし自由民主党の総裁であることも、間違いない。今国会に提出されている、極めて重要なものを含む膨大な法案について、自ら先頭に立って議会承認のリーダーシップをとらなければ、ただでさえベテランの少ない党執行部では、通過の見通しも悪く、総理の責任回避もいいところであろう。
彼はこの任期末に、特に露骨になってきたように、ただ単に、政治を「愉しんでいる」にすぎない。
日本国という、公(おおやけ)に準ずる気持は、少しも持ち合わせていないのではなかろうか。
であればこそわが国が、アメリカ、中国、韓国、北朝鮮、そして最近はロシアにまで軽く見られ、国内問題も至る所で停滞しているというのに、特段の危機意識をもっているようにも見受けられない。

占領政策によって、公(おおやけ)の存在を教えてこなかった戦後教育の成果は、ここに見事に花開いている。それは総理・総裁ばかりではない。
議事堂の中を、何か忙しそうに歩きまわっている議員連中も、この国が、これだけの危機に直面しているという意識もなく、ただ政治機構の中を右往左往する愉しみに浸っているように見受けられる。そこには「多数の人々に期待されて選出されてきた」という公人の自覚は、ほとんど感じられない。
国会議員でさえそのような状態であるから、国民の多数の期待を担って、多額の国費を費やして出場の栄誉を獲得したオリンピックの選手達も、その自分達のおおやけ公(おおやけ)の立場も弁えず、のうのうと「オリンピックを楽しんできます」と発言している。

「愉しむ」という事はあくまでも個人の意識の中の事であって、公(おおやけ)の立場とは別個の、何の関係もないことである。にもかかわらず、見聞されるのは「個人のこと」ばかりであって、公人の立場に置かれた人間に、その自覚がない国民ばかりとなってしまった。日本国民全体が、その事を習わなかったばかりに、公(おおやけ)の立場というものが、分からなくなってしまったのである。そして公(おおやけ)の意義というものが、持てなくなってしまったのである。だから国旗を掲げる事に意義を見い出せなかったり、国歌を歌う事に異議を唱える者が出てきたりしている。

現在の日本人に一番大切なことは、「自分個人が楽しく生活する事」であり、個人の集合体である国家というものがどちらを向いていようと、どうなっていようと、関係が無くなってきている。
国家権力というものは、唯「我利、我欲を通す時に利用するもの」となってしまった。その様な人間の集まりは、まさに亡者の群れである。

我が国の総理以下、責任ある立場にある者の全員も、総て、公(おおやけ)を弁えぬ、戦後教育の産物となってしまった。いかにして我々は、普通の国の人間として、立ち直る事が出来るのであろうか。
教育再生 それしかもう、我々の道は残されていない。

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