靖國の友よ
(平成15年)

大東亜青年塾副塾長

上谷 親夫

昭和20年8月15日、日本の歴史始まって初めてという電波に乗せられた天皇のお声によって、日本は敗戦を認めた。その時の我国の姿と言えば、金沢、京都、奈良など極わずかを遺して、都市という都市はことごとく焼け野原と化し、さすがに日の出の勢いであった東洋の君子国日本も、もう再起は不能であろうと多数の諸外国は思い、国民の中にもそう思う者が多かった。
その焦土と化した祖国へ、大陸から、南方諸国から、朝鮮、台湾から、数百万人の兵士は復員し、民間人が引揚げてきた。その時、「日本人には餓死者が出るであろう」とさえ言われた。
しかし各企業から出征した兵士たちは企業に戻り、学徒途中に出征した学徒たちは、一部卒業を放棄した者を除き、夫々の学校の復帰してきた。

職場、学校の復帰した人たちは、自分の生存を確認はしたものの、四六時中頭を離れないのは、敵弾に当り、呻きながら死んでいった戦友たち、20歳になったかならぬ年齢で、死にたくはなかったであろう。どんなにか未知の未来を生きたかったであろうか。ニッコリ笑って、従容として特攻に散って行った友のことであった。
「俺も死んでいる身であった」「俺は命を拾った」「生き残った俺は、死んでいった彼らの分まで働かなくてはならぬ」――戦争を経験した若者が、焦土と化した日本を睨んで立ち上がった時の気持ちは、このようなものであった。

世界の奇跡と言われた日本の戦後復興、それには朝鮮戦争によるアメリカの占領政策の転換、戦争特需の発注など、思わぬ幸が重なったこともあるが、年長者の公職追放によって古い重い笠が無くなり、否が応でも各企業、各組織の中核にならねばならなくなった若者が、心の中で決意した事は、この死んでいった戦友に対する誓いであった。

ある時は共に「今度は靖國神社で会おう」と誓い合った。それが端なくも自分が生き残り、彼らはもの言わぬ「靖國の神」となってしまったのである。
「靖國神社の神となった友よ、見ていてくれ」
これが彼らの思いであった。
復興に取り組んだ若者は必死であった。
「これしきの事が、何がつらい」
「死んだあいつは、どれだけ苦しんで死んでいったか」
その思いが超人的な力と、能力を発揮し、奇跡の復興を成し遂げたのである。

だから日本が復興を成し遂げた昭和40年代、世界から復興の秘密を探りに押し寄せてきた。しかしその復興のカギは、システムでもなければ、やり方でもなかった。勿論それも成功の一因には違いなかったであろう。しかし当時日本がやっていたことを、そのまま完全に移転し得たとしても、決して我国が成し遂げられた様な結果は得られなかった筈である。それはそのシステムなりやり方を実行している人間の心の持ち方が、全然違っていたのである。片方は死んでいった友の心を胸に描き、死ぬ気になって頑張っていたのである。

戦後、人間宣言をされた昭和天皇は、沖縄を除く日本全国を、警備らしい警備もなく回られた。
それは全国民に、どれだけ「よし、やるぞ」の気概を盛り上げたことか。そして天皇は、靖國神社の英霊に、深々と頭を垂れたもうたのである。靖國神社は、日本人の心の支柱の存在なのである。

近時近隣諸国の謀略的言辞によって、靖國神社の代替施設を建設するの暴挙を企てている者が、悲しい事ながら一部国会議員をはじめとして、国民の中にも存在している。日本人の精神の支柱をなしている靖國神社の存在を考えるとき、これらは日本の革命を企図して亡国歴史教科書を執筆している徒輩と軌を一にする者と断ぜざるを得ない。

「靖國神社に鎮まります友よ見てくれ。命を与えられた俺達は、貴様たちの分も頑張ったぞ。」
日本の奇跡の戦後復興は、殉国の靖國の霊を胸に抱いて頑張った、戦争に生き残った人々の、金字塔そのものであるが、しかし現在の靖國代替施設の動きや言語に絶する精神破壊の現状をみるとき、英霊と祖先の慟哭に我耳破れ胸は張り裂けんばかりである。

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