改憲論者は靖國参拝を止めよ
(平成17年)
弁護士
南出 喜久治
大東亜の殉国の士は、一体何を守らうとして死地に赴いたか。それは、悠久の大義である國體護持、この一点にあったはずである。
決して、國體を破壊するための占領憲法が死後に制定されることを願って命を捧げたのではない。
英霊の鎮魂と顕彰を行ふということは、そのみたまと一体となり、その志を引き継ぐものによってのみ出来ることである。「わたくしがミタマを引き継いで尽力しますので、どうかお鎮まり下さい。どうかワレに力を与へたまへ」と祈ってこその鎮魂と検証であって、志を異にする者によっては鎮魂も検証もできるはずがない。
占領憲法は、英霊の存在自体を否定してゐる。否、「英霊」ではなく「悪霊」「邪霊」として陥れて唾棄するのが占領憲法の「精神」である。その占領憲法を肯定した上で、それを少しばかり変へることができたからと云って、やはり占領憲法の「英霊否定」の精神は不変である。
ところが、巷では、占領憲法を「有効」とした上で、その不備を指摘する「改憲論」を唱へる者も、英霊の鎮魂と顕彰のために靖國神社や護国神社を参拝するといふ。しかも、そのやうな者に限って、自己顕示欲が強く、サンパイ、サンパイと喧しい。
しかし一体、彼等は何を祈り、英霊と何を語るのか。英霊の志を踏みにじり、英霊を否定した占領憲法を有効であるとする背信悖徳の輩が、英霊を参拝することに何の意味があるのか。英霊を否定し続けるオノレのツミとケガレをゆるしたまへと祈るのか。「あなたを蔑にしますので魂を落ちつけて鎮まりたまへ」と祈るのか。また、「あなたの國體護持の魂を以てわたくしの國體破壊の企てに力を与へたまへ」と願ふのか。英霊がそれを迎へ入れるとでも思ふのか。
護憲論も改憲論も所詮、占領憲法有効論である。護憲論者は論外であるが、この道理が解らない改憲論者も五十歩百歩である。改憲論者は無自覚な國體破壊者に他ならない。
すべて改憲論者に告ぐ。靖國神社と護國神社への参拝は遠慮されよ。そして、占領憲法無効論へと改心してから再び参拝されることを望む。