大東亜戦争(太平洋戦争の正式呼称)は
一体どの様な戦争であったのか
(平成23年)
大東亜聖戦祭実行委員長
諸橋 茂一
戦後(特に平成7年8月15日に発表された「村山談話」以降)の教育並びに報道では、わが国がまるで侵略戦争を戦ったかのようになっているきらいがありますが、果して大東亜戦争は侵略戦争という戦いだったのでしょうか?
結論から先に記すとすれば、(聖戦という言葉が有るならば)大東亜戦争以上の聖戦は人類の歴史上、存在しないと言ってよいでしょう。
明治38年(1905)日露戦争後のポーツマス条約は(当時)米国のセオドア・ルーズベルト大統領が仲介した形で成立しました。
しかし、米国はその翌年、日本を仮想敵国とした「オレンジプラン」を策定し、何度も見直しを図っていました。
大正13年(1923)に、米国は「排日移民法」を策定し、日系米人の土地を全て取り上げたのみならず、「日系米人は子々孫々に至るまで土地の所有の権利を認めない」という非常に不当、不法、理不尽この上ない法律を作って日系米人を迫害しだしたのです。
昭和16年(1941)7月25日に、米国はわが国の「在米資産を一方的に凍結」しました。それに、イギリス、オランダも追随しました。
更に同年8月1日、米国はわが国に対して「石油の完全禁輸」に踏み切りました。それにも、イギリス並びにオランダも追随しました。(当時、我が国は米国から約76%の石油を輸入していました。その米国とイギリス並びにオランダから石油をとめられたということは、我が国の首元を押さえられた様な状況となったのです)
米国は、中国戦線に100機編隊の空軍を送り込み、同年10月20日、昆明付近で我が日本軍に攻撃を加え出しました。
そして、とどめを刺す様に、米国は実質上の宣戦布告であった「ハルノート」を同年11月26日、我が国に突き付けたのです。そこで、我が国はやむを得ず立ち上がったのです。
3年8ヶ月の戦いで我が国は、軍民併せて約310万人とも言われる未曾有の戦死者並びに民間犠牲者を出し、全国の主要都市を米軍の無差別攻撃によって焦土とされてしまいました。しかし、我が国が国家の存亡をかけて多大な犠牲を払って欧米と戦ったおかげでアジア、アフリカから戦後多くの独立国が誕生しました。
戦前は約60ヶ国しかなかった世界の独立国が今は約200ヶ国にも増えました。
我々の父祖の方々は間違いなく、我が国を護るためと、長年欧米の植民地となっていたアジアを解放する為に戦われたのです。そしてその事は、我が国を一方的に悪者に仕立て上げようとしたマッカーサーも認めていることなのです。
戦死者並びに民間の犠牲者の方々の尊い命は二度と戻ってきません。
しかし、現代に生かされている我々日本人は、上記のことをしっかりと後世に伝えていかねばなりません。
その様な考えの下に、11年前、草地貞吾、中田清康両氏により「大東亜聖戦大碑」が建立されました。
今回私は中田前実行委員長より後任の大役を拝命致しました。
お引き受けした以上は、この重責を全うする覚悟でございます。
どうか、護持会員各位におかれましては、今後とも変わらぬ御協力、お力添えを賜ります様、何卒よろしくお願い申し上げます。