大東亜戦争は何故始まったのか?
(平成21年)
大東亜聖戦祭実行委員長
諸橋 茂一
簡単に記す。
15世紀後半から始まった欧米による植民地政策により、大東亜戦争開戦前、アジアの独立国はタイ(英仏の緩衝地帯)と日本だけであった。
明治37〜38年(1905)、我が国の独立とアジアを護り抜くために、当時世界一の軍事大国であったロシアを相手に勇戦し、見事ロシアを撃ち破った。
日本に大きな脅威を感じた侵略国米国は、その翌年(1906)我が国を仮想敵国とした『オレンジプラン』を策定し、以後何度もそれを見直している。
1924年(大正13)に米国は、日系米人を迫害するための『排日移民法』を成立させた。
それは「日系米人の土地を取り上げると共に日系米人は子々孫々に至るまで土地所有の権利を認めない。」という不当極まりないものであった。
昭和14年(1939)、ヨーロッパ戦線が始まり、翌年にはドイツがヨーロッパの殆どを制圧する様な状況となり、更にドイツはイギリスに対して猛爆を続け加え、イギリスの陥落も近いという様な状況となっていた。
そこで、イギリスのチャーチル首相(当時)は、米国のルーズベルト大統領に対して盛んに援軍要請を重ねた。
しかし、当時の米国世論は、90%が参戦反対という状況であった。
そこで、昭和16年(1941)8月9〜12日、チャーチルとルーズベルトは「太平洋洋上会談」を行い、米国がヨーロッパに軍隊を送る口実として、「その前年(1940)に日独伊三国軍事同盟を結んでいた日本を経済的に追い詰めて、日本に第一撃を討たせ、日本が攻撃してきたら、日本に反撃すると同時に、ヨーロッパにも米軍を送る」というシナリオを描き、その後ABCDラインによる経済封鎖をかけると同時に日本に対して様々な圧力をかけ続けたのである。
同年7月25日、いきなり米国は
「我が国の在米資産を凍結」した。
その後8月1日、米国は我が国に対して
「石油の完全禁輸」に踏み切った。
(当時の日本は石油の輸入の80%を米国に依存していた)
それらの対日経済封鎖策に、英国並びにオランダも追随した。
その他あらゆる挑発謀略をなした。
同年11月26日、米国は8ヶ月に及ぶ我が国の平和を求める誠意に対し、最後通牒『ハル・ノート』を突き付け、遂に我が国は苦渋の『開戦』決定をしたのである。