平成29年度 大東亜聖戦祭の御挨拶
(平成29年)

大東亜聖戦祭実行委員長

諸橋 茂一

ただいまご紹介いただきました大東亜聖戦祭実行委員長を仰せつかっております、諸橋茂一でございます。皆様、本日は大変お忙しい中、猛暑の中を、全国より、平成29年度大東亜聖戦祭に御出席いただき誠に有難うございます。また、大東亜聖戦大碑護持会の運営にも多大な御協力をいただき誠に有難うございます。高い席からではございますが、この場をお借り致しまして心より厚く御礼を申し上げる次第でございます。また、本日は田母神俊雄会長にも御出席頂いております。田母神会長の逮捕並びに起訴及び第一審の有罪判決は不当極まるものでございます。田母神会長は今後第二審を戦っていかれます。是非、皆様、これからも田母神会長の無罪を信じて応援して下さい。宜しくお願い致します。

この大東亜聖戦大碑は、前実行委員長・故中田清康様と、9年間の長期にわたりシベリアに不当抑留された故・元関東軍作戦課長・陸軍大佐・草地貞吾様が中心となって、全国の戦友諸団体並びに大東亜戦争実体験者の方々に大碑建立のための基金協力を呼びかけられて、約6000万円の基金を集められました。それに、中田清康様が約4000万円の私費を拠出され、計約1億円の費用をかけて、我が国が何故、大東亜戦争を戦ったのか、戦わざるを得なかったのか?大東亜戦争は、我が国を護る為と東南アジアを解放する為に、我が国がやむなく戦った聖戦であった、ということを後世に正しく伝えていくために、平成12年8月4日、高さ約12mのこの大東亜聖戦大碑雄を建立されたのであります。
そして平成22年には、大東亜戦争開戦時における当時の世界の状況、当時の世界の多くが欧米の植民地となっていたという事実を彫り込んだ「副碑」を建立されたのでございます。この大碑並びに副碑の建立には、故名越二荒之助先生(元高千穂商科大学名誉教授)、故中村粲先生(元獨協大学名誉教授)、故米沢外秋氏(元石川県議会議長)、故小室直樹先生(元東大名誉教授)、小堀桂一郎先生〈東大名誉教授〉、故冨士信夫先生(歴史家、元海軍軍人)、板垣正先生(元参議院議員)、故奥野誠亮先生(元法務大臣)等々、非常にしっかりした歴史観、国家観、世界観を持たれた見識ある方々が全面的に協力されたのであります。

さて、皆様、戦後6年8ヶ月続いた、米国GHQによる、様々な日本並びに日本人弱体化政策と、その後長期間にわたる、我が国のマスコミの多くの間違った自虐報道及び、日教組が中心となった間違った自虐教育の弊害等によって、我が国は無謀な間違った戦争をした。当時の我が国の指導者は実に無能なものばかりであったかのような自虐意識が、多くの国民に植え付けられてしまっております。しかし、果たしてそうでしょうか?真実の歴史を知れば、その様な味方は大きく間違っているということが分かります。

1928年(昭和3年)12月7日、米国の当時の国務長官・ケロッグは米国上院において、「・・・・・経済封鎖は実質戦争行為である。(だからむやみに経済封鎖などしてはならない。)」という意味の演説をしました。ところが、その11年後、1939年(昭和14年)7月26日、米国は我が国に対して、「日米通商航海条約」の一方的破棄通告をしてきたのであります。そして、その後、所謂ABCDラインによる経済封鎖を含めて、米国は実に様々な経済的、政治的な圧迫を我が国に加え続けてきたのであります。1940年(昭和15年)9月26日には、「屑鉄の完全禁輸」、1941年(昭和16年)3月からは、米国は、今の貨幣価値にすると、約80兆円にも上る武器弾薬等を、実質無償に近い金額で、イギリス、旧ソ連や中国やフランスに提供しました。そして、同年の7月25日には、我が国の在米資産の一方的凍結、同年の8月1日には、石油の完全禁輸、そして、同年の11月26日には事実上の宣戦布告書であった「ハル・ノート」を我が国に突き付けて来たのであります。
そこで我が国は、我が国を護るためと、長期間欧米の植民地となっていた東南アジアを解放する為にやむなく立ち上がり、実に甚大な犠牲を甚大な犠牲を払って3年8ヶ月に亘る大東亜戦争を、正に死力を尽くして戦ったのであります。その結果、直接、間接に、世界の植民地の多くが解放されたのであります。我が国が大東亜戦争を戦っていなかったならば、今でも多くの植民地は植民地のままであったでしょう。我が国は甚大なる犠牲を払いはしましたが、「世界の植民地解放」という、人類史、世界史に残る実に偉大な事を成し遂げたのです。

昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃で大東亜戦争が開戦となったことは誰でも知っていますが、同じ日に、我が国は、「香港」と「マレー半島」と「フィリピン」、3つの戦いを同時に始めたのであります。
香港の戦いは、酒井隆中将率いる第23軍が、同年の12月8日、香港に上陸し、イギリス軍と戦い、同年の12月25日には、香港を占領しました。
マレー半島の戦いは、山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍が同じく12月8日に、マレー半島のシンゴラとコタバルに上陸し、イギリス軍とオーストラリア軍を相手に激戦を続け、翌年の1月31日には、マレー半島の最南端、ジョホールバルを制圧しました。そして、2月9日にはシンガポールに上陸し、2月15日にはシンガポールを占領しました。
また、本間雅晴中将率いる第14軍は、同じく12月8日にフィリピンに上陸し、アメリカ軍相手に勇戦を続け、翌年の1月2日にはマニラ占領。5月10日にはフィリピン全土を制圧致しました。
昭和17年(1942年)3月1日、今井均中将率いる第16軍は、インドネシアのジャワ島に上陸し、3月9日にはジャワ島を制圧致しました。350年間インドネシアの植民地支配を続けたオランダ軍を、我が日本軍は僅か9日間で打ち破ったのであります。
また、昭和16年(1941年)12月10日、開戦僅か2日後には、マレー沖で、イギリスの東洋艦隊の旗艦であった、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈してしまったのであります。
また、昭和17年(1942年)2月14日、我が国の落下傘部隊は、たった1日で、パレンバン空港を制圧し、翌年、2月15日には、パレンバン製油所を、それもたった1日で制圧してしまったのであります。その時に中心的働きをされた奥本實隊長の御子息、奥本康大様にも、本日はお越し頂いております。

開戦当初の我が国の海軍戦力と米国太平洋艦隊の戦力を比べますと、実は我が国の海軍戦力の方が米国よりも上回っていたのです。開戦当初の我が国の空母の数は10隻でした。それに対して米国の太平洋艦隊の空母の数は5隻でした。同じく、我が国連合艦隊の駆逐艦の数は112隻、それに対して、米国は84隻でした。潜水艦の数は、我が国が65隻、米国は30隻でした。開戦当初においては、我が国の方が海軍総合戦力は米国よりも2倍くらい上回っていたのであります。決して我が国が勝てるはずのない無謀な戦争を戦ったから負けるべくして負けた、ということではないのであります。
開戦当初から約半年間、ミッドウェー海戦まではほとんど連戦連勝であった我が国が一体何故負けたのか?真に反省しなくてはいけないことは、「何故、負けたのか」であります。我が国は、大東亜戦争の敗因分析、検証、総括を真剣に行い、それらを後世にしっかりと生かしていかねばなりません。

徹底して我が国の弱体化を図ったマッカーサーが、昭和25年10月15日、ウェーキ―島で、米国のトルーマン大統領(当時)に対して、「東京裁判は誤りであった。」と述べ、同じく、マッカーサーが昭和26年5月3日、米国の上院軍事外交委員会において、「・・・・・・したがって、日本が戦ったその多くは日本の自衛のためであった。」と述べました。日本人に徹底して贖罪意識を植え付けようとしたマッカーサーが、その様に言ったにもかかわらず、当の日本人が、非常に間違った自虐意識、贖罪意識を何時までも持ち続けている事は実におかしなことと言わざるを得ません。
我々日本人は、我が国を護る為と、アジアを解放する為に尊い命を投げ出して戦われて散華された多くの父祖の方々に対して、深甚なる敬意と感謝の念を捧げると共に、真実の歴史を取戻し、日本人としての自信と誇りを何としてでも取り戻さねばなりません。

大東亜戦争を戦われた父祖の方々の安らかなる御冥福を衷心より念じまして、本日の御挨拶と致します。
皆様、本日は誠に有難うございます。有難うございました。

合掌

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