マレー・シンガポール戦跡巡りに参加して
(平成26年)

大東亜聖戦祭実行委員長

諸橋 茂一

(【 】内は歴史経過)

6月7〜12日迄、日本エアービジョン梶i浅田均社長)が企画した標記戦跡巡りツアーに参加した。
10年前、2004年(平成16年)は、日露戦争開戦100年目に当るということで、故・名越二荒之助先生を団長として、「歴史パノラマ(戦跡巡り)ツアー」として企画された同社のツアーに参加した。その時は、中国の上海、南京、北京、盧溝橋、瀋陽、大連、旅順等を巡った。
それ以来、10年ぶりに同社の戦跡巡りツアーに参加した。何事においても、本や資料を読んだだけでは分からない事や理解できない事が多くある。10年前の時もそうであったが、今回も参加して本当に良かった。何事においても、「現場、現物、現認」することが最も大切である。

今回のツアーには、同社の浅田均社長と陸上自衛隊出身の戦史研究家、和泉洋一郎氏が同行された。特に和泉氏からは、各戦跡において、非常に詳細かつ非常に有益なご説明を頂いた。その他、産経新聞社出身のジャーナリスト・高山正之氏、旧陸軍出身の長濱春夫氏(88歳)と同・松永太氏(84歳)も御一緒だった。(総勢14名、平均年齢70.7歳)
松永氏は戦時中、何と13歳の若年、僅か中学1年生の時に、陸軍に志願して入隊されたという。長濱氏も僅か17歳の時に、陸軍に志願して入隊されたということである。英米から、政治的、経済的に徹底的に追い詰められた我が国を護る為と、長期間欧米の植民地となっていた東南アジアを解放する為に、僅か13歳や17歳の時に志願して入隊された、御両名のそのお気持ちに対して深い敬意の念を抱かざるを得ない。
大東亜戦争を戦った当時の先人の多くは、長濱氏や松永氏の様なお気持ちで戦われたのである。
余りにも不勉強な村山富市元首相は、当時の実情を全く無視して、我が国の国益と、先人の方々の誇りと名誉を全く無視して、実に馬鹿げた「村山談話」を平成7年8月15日に発表したが、少し真面目に、真剣に勉強すれば、当時の我が国が何故、大東亜戦争を戦ったのか、戦わざるを得なかったのかは、普通の日本人であれば誰でも理解できることである。
しかし、誠に残念ながら、6年8ヶ月に亘るGHQによる占領統治、日本弱体化政策「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」並びに「3R5D3S政策」、マスコミに日本罪悪論報道を強制した「プレスコード」、そしてその影響が未だ続いている多くのマスコミの偏向報道、GHQに押しつけられた国際法違反且つ国内法違反の現憲法・・・等々、戦後、我が国を悪者にする為に「悪整備」された様々な弊害の為に、日本は悪い国だったと多くの国民が思わされているが、この様な歪んだ状況を何としてでも大きく改善しなくてはならない。そして、日本人としての自信と誇りを持てる独立自尊の「まともな国家」に早く作り直さねばならない。
そうしなければ、長濱氏や松永氏をはじめとする大東亜戦争を戦われた父祖の方々に対して、戦死された多くの先人の方々に対して申し訳がない。200数十万とも言われる数多の「尊い死」を決して無駄にしてはならない。
長濱氏と松永氏は、非常な御高齢にも拘らず、今回の旅行中、長い坂道でもものともせずに、我々と行動を共にされた。正に脱帽であった。

6月7日(土)、MO‐089便(10時30分)で成田発、クアラルンプール経由で、同日、20時50分、マレーシアのアロルスターに到着、そのまま「ホリディ・ヴィラ」ホテルに向った。マレーシアと日本の時差は1時間である。(マレーシアの方が1時間遅い)
マレーシアの国旗には、赤と白の線が14本ある。それは、同国の13県と政府、併せて14を意味しているということである。
マレーシア全体で9人の国王がいて、5年ごとに交代するという。
マレーシアは、錫、ゴム、石油の産地である。
マレー作戦における双方の戦力は
日本軍35,000、英軍88,600。
日本軍の戦死 1,793、戦傷2,772。
英軍の損害 約25,000、うち、遺棄死体約5,000、捕虜約8,000。
日本軍の圧倒的勝利であった。

6月8日(日)朝7時にホテル出発、タイとの国境に着いた。

 【昭和16年12月8日、タイのシンゴラに上陸した山下奉文中将率いる第25軍は、同10日にこの国境を通過し、正に驚異的な南下を続けた。第25軍の主力がシンゴラに上陸したその2時間後に、山下中将を中心とする第25軍司令部が上陸した。(通常、この様なことはあり得ないことであるという。通常は、主力軍が上陸してから、2〜3日後に、軍司令部が上陸するという。)】
 【同日、歩兵第56連隊がマレー北部の東海岸、コタバルに上陸、南下を続けた。】
 【開戦、僅か2日後の10日に、マレー半島東方沖で、日本軍の九六陸上攻撃機と一式陸上攻撃機の雷撃、爆撃で英軍が誇った東洋艦隊の旗艦、プリンス・オブ・ウェールズと、主力戦艦、レパルスを撃沈した。(イギリスのチャーチル首相(当時)はその事が彼の人生における最大のショックであったという)(また、その事で、欧米による植民地主義に終焉が来たと見た識者が世界に多くいた)】

我々一行は、国境線を見た後、第25軍が進攻したのと同様の経路を辿りながら、マレー半島を南下した。
ジットラ、アロルスターの戦跡を見学した。アロルスター飛行場を守る為の英軍の「トーチカ」も見る事が出来た。

 【「ジットラの戦い」は、12月11日に始まり、同12日、日本軍は英軍を制圧した。】
 【約1,000台の自転車部隊「銀輪部隊」も南下した。】
 【第25軍は、ジットラ、アロルスターを制圧した後、ペナン島に渡り、12月19日、同島を占領した。日本軍は鹵獲(ろかく)したそれらの船舶を使ってマラッカまで行った。また、鹵獲したラジオ局は、日本軍がその後の宣伝戦に大いに活用できたということである。】

我々一行は、ジットラの戦跡を見学した後、ペナン島をけんがくした。その後、再びマレー半島に戻り、日本軍が渡河したペラク河の「ヴィクトリア・ブリッジ」(約300m)を見学した。

 【同橋は英軍によって約80m(2橋脚間)破壊されたが、日本軍の工兵隊は僅か10日間でこれを復旧したという。】

同日は、イポーの「インピアナホテル」に宿泊した。

6月9日(月)午前8時にホテルを出発。カンパル、スリム、スリムリバーの戦跡を見学した。

 【スリムの戦いで、島田戦車隊(10輌)は戦闘で突撃した。(通常、この様に戦車隊が先頭で突撃するという事はないということである。)】
 【日本軍は、昭和17年1月7日の5時より「スリム」での戦闘を開始し、同日の13時には英軍を制圧した。】
正に破竹の快進撃である。

バスの中で、大本営で作成(辻正信制作)した「日本軍人心得」を読んだ。その中には、

1  当時の世界情勢。
2  英米が、我が国を政治的経済的に如何に不当に追い込み続けたか。
3  その様な中で、我が国が何故英米を相手に戦わざるを得なくなったか。
4  東南アジア各国が、永年に亘り、以下に欧米に侵略され、東南アジア諸民族が欧米諸国に如何に虐げられてきたか。
5  大東亜戦争の呼称の意味。(我が国を護るためと、長期間に亘り、欧米の植民地となっていた東南アジアを解放する為に戦うという意味が込められていた。)
6  大東亜戦争の歴史的意義並びに我が国の歴史的使命。
7  華僑が、東南アジア各国で、支配国側の手先となって、如何に利を得てきたか。
8  現地の人々の特性並びに接し方。
9  東南アジアの風土、文化、蚊・毒蛇・病気に十分気をつけるように。
10  戦い方。
11  武器の手入れの仕方
12  適度な休養、十分な睡眠並びに十分な食事の大切さ。
13  日本軍人の心得。不法行為の禁止。(歓呼の声に送られて、故郷を出て来たことを決して忘れてはならない。決して日本軍人として恥じることはしてはならない。)
14  その他。

上記のことに関して、非常に的確に、詳細に記されていた。日本を出国し、戦地(東南アジア)に着くまでにそれを熟読して、日本軍人全員が厳守するように申し渡されていたということである。
各戦地で、国際法に大きく違反して、平気で婦女暴行を繰り返し、老人や婦女子を含む民間人を平気で虐殺し続けた米国や旧ソ連や中国並びに韓国の軍隊と日本軍人は全くレベルが違うと、以前から思ってはいたが、この文書を読んで、改めてその意を強くした。
世界の軍隊で、ここまで軍人に対してしっかりとした教育、指導をした軍隊は過去になかったと思う。
硫黄島玉砕の直前に、「ルーズベルト君に与うる書」を纏めた市丸利之助少将や、小野田寛郎元少尉が決して特別の日本軍人ではなく、多くの日本軍人が「しっかりとした歴史観、国家観、世界観、そして強い使命感と強い覚悟」をもっていたのだと改めて認識した。我々日本人はその事を誇りとすべきである。
同時に、我が国の政治家、外交官、マスコミ関係者並びに教育関係者等は、上記をしっかりと持つようにしなくてはいけない。それらの欠如した日本人が現在の我が国にはあまりにも多すぎる。そのことを以前より強く憂い続けている。

クアラルンプール市内に入った。多くの高層ビルが立ち並び、建築中の建物も多い。一時、世界一を誇ったマレーシアを代表する「ペトロナス・ツインタワー」を見学した。
一棟は、日本の間組が建築し、もう一棟は韓国のサムスンが建築したということである。
韓国のサムスンが建築したタワーが傾いているというので確認してみたら、確かに、その棟が僅かに傾いている。その為に、間組が建築した棟には、官公庁を含めて、政府系並びに一流企業が多く入居しているが、サムスンが建築した棟は入居率が良くなくて、特に上層階は入居していないということである。
同日は、クアラルンプールの「ルネッサンス・クアラルンプール」に宿泊。

6月10日(火)、ホテルを出発、高速道路で一路、ジョホール・バルに向った。
マラッカに到着、マラッカ海峡を望んだ。
マレーシアでは、「スラマッ・パギ」「テレマカシー」「サマサマ」等々インドネシア語が良く通じる。ガイドの揚さんから、マレー語とインドネシア語は90%同じだと聞いた。「日本軍が3年半、軍政統治したインドネシアでは、占領当時、オランダ語と英語が公用語として使用されていたが、日本軍はインドネシアの独立の為に、それらの使用を禁ずるとともに、マレー圏で多く使用されていた言葉を基にしてインドネシア語を定め、それを公用語とした」ことを小生はインドネシアを訪問(計5回)して聞いてはいたが、今回改めてその事を確認することができた。
マラッカでは、オランダ広場、サンチャゴ砦塔を見学した。漢字の看板もあちこちにある。バクリ、スロットスロンの戦跡を見学した。

 【バクリの戦いの後、マレー半島のイギリス軍はほぼ壊滅状態となった。】

バクリの戦跡で、慰霊祭を挙行した。御線香を手向けるとともに、全員で「海ゆかば」を奉唱した。(今回のツアー中、戦跡並びに日本人墓地数か所で同様の慰霊祭を挙行した。遺灰は井上さんが、お酒や御供えは、向後さんが御用意していただいた。)
マレー半島の最南端、ジョホール・バルに着いた。

 【日本軍がジョホール・バルを制圧したのは、1月31日。何と日本軍はマレー半島に上陸以来、大英帝国、イギリス軍と激戦を繰り返しながら約1,100kmを南下、僅か55日間でマレー半島を制圧したのである。(このことは世界戦史の奇跡とも言われているということである)】
 【F機関(藤原機関)が英軍を構成していた投降インド兵に働きかけて、インドの独立の為に戦うように仕向けたことが、後に、INA(インド国民軍)の成立並びにその後のインパール大作戦に、そしてインドの独立につながっていった事も大きな歴史的事実である】
 【ジョホール・バルに侵攻後、山下将軍は、それまでスルタン(王)が住んでいた王宮に入った。当時は、その王宮がジョホール・バルでは最も高い建物だったために、その建物の上階からはシンガポールをはっきりと見渡すことが出来た。そのために、山下将軍はその建物に入った様である。しかし、その建物は、シンガポール側からも明確に確認することが出来るため、英軍にシンガポール側から砲撃される恐れがあったが、山下将軍はその事を恐れずに同王宮に入ったということである。山下将軍は実に読経のある、腹の据わった人物であったようである。今の我が国政治家に是非とも見習ってもらいたいものである。】

同日はジョホール・バルの「シッスルホテル」泊。
ジョホール・バルから、毎日約18万人のマレーシア人がシンガポールへ働きに行っているということである。それは、シンガポールの賃金が、マレーシアの2倍、生活費はマレーシアがシンガポールの2分の1という事情によるという。
ジョホール・バルの人口は約140万人、マレーシア全体では約2,900万人ということである。

【2月8日、日本軍はシンガポールに対して攻撃を開始、同9日、ジョホール水道(7〜800m)を渡り、シンガポールに侵攻した。そして激戦の末、日本軍はブキット並びにブキテマの戦いを制するとともに、北並びに南の水源地を制圧した。そこで、連合軍(英軍)のパーシバル中将は、15日午後5時15分頃、日本軍に対して降伏した。(元、フォード工場跡で)】

なお、「シンガポールの戦い」における日、英軍、それぞれの戦力並びに損害は以下のとおりである。
日本軍戦力 36,000 、 戦死 1,715 、 戦傷 3,378。
英国軍戦力 85,000 、 戦死 約5,000 、 捕虜 約80,000。
日本軍はマレーの戦いは55日間、シンガポールの戦いは僅か8日間、計僅か70日間(延べ日数)で、共に、戦力は英軍よりも劣っていたにもかかわらず、見事、英軍を打ち破ったのである。特に、当時のシンガポールは難攻不落の砦(東洋の要塞)といわれていたのである。
決して我が国が求めたわけではないが、米英に政治的経済的に徹底的に追い詰められ、我が国の存亡と東南アジアの解放を目指して、我が国が多大な犠牲を払って欧米相手に戦った大東亜戦争が、3〜400年、長期間に亘り世界の多くの国々を虐げ続けた欧米の植民地主義、植民地政策に、間違いなく終止符を打ったのである。我が国が大東亜戦争を戦っていなかったならば、世界の多くの植民地は恐らく今も植民地のままであったであろう。

昭和30年(1955年)、インドネシアで開催された「第1回バンドン会議」に、当時、次から次へと独立を果していたアジア、アフリカの国々29カ国の代表が集まった。
その時、我が国の代表が各国の代表から握手攻めにあったということである。
アジア、アフリカの代表は我が国の代表に口々に熱く語った。
「我が国が独立できたのは日本のお蔭です。日本はこれからもアジアのリーダーとして頑張って下さい」と。
その事を全く分かっていないのは、現在の多くの日本人である。
マレーシアの元外務大臣、ガザリー・シャフィーは次のような言葉を残している。
「日本はどんな悪い事をしたというのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈伏させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたのだと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことが出来ずマレーシアは独立したのだ」と。

当時の日本軍将兵に対して、深い敬意の念と心よりの感謝の念を捧げたい。

あなた方の尊い死は決して無にはなっておりません。
あなた方の尊い死が現在の世界の多くの独立国家を生みました。
どうか、どうか安らかにお眠り下さい。
合掌

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