大東亜聖戦大碑完成
―不思議に生命永らへて―
(平成12年)
日本をまもる会会長、大東亜青年塾塾長
中田 清康
はじめに
私はシベリアから帰って五〇年以上、勤めも含めてのあらゆる生業(二〇回以上転廃業、幾多の辛酸を舐めた)は憂国活動を続けるためのものであったといへる。この間経営の危ない中でもなんとか生かされ続け、草地先生に出会い聖戦大碑を完成できたのはおこがましい言ひ方であるが一貫して戦前精神をもって私より公のため尽すことを処世の根本として来たことが神仏の御照覧に適ったものであると信じてゐる。
よき人との出会ひも事業と同じく目的達成のため与へられた天の配剤であった。すべて神仏の御加護であり、感謝、感激以外にない。
齢も八〇に近い。過ぎ去りし年月を顧みる時人生の哀歓・毀誉褒貶を限りなく写す万華鏡である。満目百里雪白く枯れ木に宿る鳥もなき広漠千里荒涼たる満蒙広野の冬、万朶の桜薫る故郷の春、天黒くマーリンキ(ブヨ)舞うシベリアの夏、万山錦を飾る秋の山々、それぞれの思い出は喜怒哀楽を織りなす一幅の名画となる。恩愛の契り浅からぬわがはらから、幼き友、恋しき人、訓し導き給へる師、高き理想を語らひし友、生死苦楽を共にせる益荒猛男の友垣、忘れ得ぬ返らぬ数々の面影、走馬灯の如く巡り、はかなき夢まぼろしは只懐かしく、狂ほしくわが胸を去来する。
さて今回、永年の夢であった大東亜聖戦大碑完成記念に際し、過ぎ去りし人生をふり返り不思議に生命永らえ大碑完成に至るこれまでも想ひ出を簡単に記したい。
その前にこの文を記す経緯を少し述べる。
昭和二〇年八月の終戦時関東軍参謀作戦班長(ソ連強制抑留十一年)であられた陸軍士官学校三九期の草地貞吾元大佐(以下草地先生)を委員長に仰ぎ、大東亜聖戦大碑建立事業を私が実行委員長として遂行させて頂いた。
そこでよくいろいろな方から貴方は何期ですかと問はれた。これは私も陸軍士官学校出身(以下陸士出)であり、軍で先生と何か関係があったと思はれたからであらう。強ひて関係といへば受験したが身体検査ではねられたことがあり、昔憧れの学校であったぐらいである。さて私は長く陸士出といへば國を憂へる方々ばかりであると考へていた。それ故に終戦後旧日本陸軍が南京虐殺だ、慰安婦強制連行だ、七三一部隊の蓄行だ、化学兵器を遺棄して迷惑を与へているなど悪鬼の如く非道・無道をして来た軍隊であるかの如くののしられ、伝統ある軍紀厳正な皇軍を盗賊以下にあしらわれ、いわれなく傷つけられているのに、どうして陸士出が団結して徹底的に反撃し、名誉を取戻すため立ち上がらないのか不思議であった。父祖と我々世代は十九世紀末から二〇世紀前半にかけ東洋平和と人道のため戦って来た献身正義凛たる皇軍の一員であった。それを一部の軍閥が謀議して起こした侵略戦争であったと汚名を着せられ近隣諸国を苦しめたなどと匪賊・馬賊以下に扱はれ陸士出でなくとも皆腹が立つ筈であるが、どうしてその中心となるべき皇軍の基幹たる陸士出が反撃に立ち上がらず黙過して来たのかまことに不思議であり、遺憾であった。
それどころか二〜三の例をあげれば、祖国の過去を悪とばかりあげつらう左翼の幹部となったり、ある者は議会でせっかく南京虐殺などなかったことをとりあげても腰がくだけてしまったり又財界や真言教団で重きをなす地位にあり乍ら左傾教団の靖国神社参拝反対を抑へも出来ぬ有名な元参謀さえ居る。昔の光今いづこである。
敗軍の将兵を語らずというが用兵ではなく祖国のためにはそうではないであらう。真実のため、正義のため大いに怒り、伝統文化破壊から日本をまもり行動を起こす正義感を陸士出の優秀な方々が何故この様に失ったのか、その多くが沈黙・時流迎合して来たことが真実をゆがめ、よこしまが正当化される原因をつくったのである。祖国に、祖先に、子孫万世に、又真実の世界に申し訳ない間違ひを与へて来たのである。現在の精神的亡国を助長して来た責任は大きい。戦後民主主義に迎合した無行動と沈黙が真の敗北をもたらしたといへる。英霊は今の様な亡国状態をつくるため祖国に殉ぜられたのではない。
生き永らえさせて頂いた我々は若く元気な内に一致団結行動すべきでなかったのか悔やまれる。
全戦友会昌平に率先して軍の基幹たりし者が立ち上がれば、真実を知らぬ亡国集団や口舌の徒をこれくらいのさばらすことはなかったであらう。そして祖国精神の破壊がこれほど深刻にはならなかったと思ふ。皆が今は既に八〇〜九〇歳以上になられている。しかし今回大碑事業には陸士各期の方々も多く参加せられ、特に五八期多治見國正、五二期畑山義明両氏に献身的御協力を賜ったことは誠に有難かったことを付記する。
機械科出身で難を逃れる
私は昭和十一年小学校を卒業し、工業学校機械科へ入ったが、ここで機械実習がどうしても好きになれず、イヤイヤながら五年間を送った。二年生のとき中学の友人が朴は陸軍幼年学校へ行くと言ふので自分もと思って先生に話したら工業学校はそんなところへ行くものではないと言はれそんなものかとあきらめてしまった。そうでもなかったのだがあとの祭り。登校拒否など思いもよらぬ時代我慢我慢の五ヶ年であり、おかげで自己犠牲と忍耐心が増強されたのは何よりも有難いことであった。
五年生ともなれば大分世の中もわかってその夏機械に別れようと陸士を受験したが、レントゲンで胸に覚えのない痕跡があると言はれ身体検査で不合格になった。しかしイヤイヤながら通った機械科と共にこの不合格が私を生き永らへさせる天の配剤であったことを今つくづく感じて居る。同時に受験し合格した者の多くが今はこの世に居ない。いやな機械科が救いとなったことは後述する。陸士受験に落ちたすぐあと一〇月はじめ学級就任が私を職員室へ呼び満洲へいかないかといはれた。関東軍で軍属の技術学生を募集していることを知らせてくれたのだ。かねがね大陸を夢みて居た私であり一も二もなく応募し選考採用されて、昭和十六年三月末勇躍渡満、関東防衛軍野戦建築隊軍属となり実務に従事し乍ら年数回技術学生集合教育(ボイラー・ポンプ・衛生工学・力学・建築概論等)が主として新京で専門教授により行はれた。この実務教育がシベリアより復員後税務署をやめたあと大いに生業を助けてくれたことは有難かった。
さて大東亜戦争の戦局頓に悪化した昭和十九年六月私は召集を受け満ソ国境大肚子川にある自動車部隊へ入隊した。その年十二月中旬1期検閲のあと技術部幹部候補生(以下幹候)を命ぜられた。幹候合格者一〇〇名中たった二名の技術部候補生であった。これがイヤイヤ乍ら通った工業学校機械科出身のおかげであったことは皮肉である。そして九八名の兵科幹候と生死明暗をわけることになろうとは神ならぬ身知る由もない。九八名は翌年早々阿城(哈爾濱東北約五〇km)にある陸軍予備士官学校へ入校、私共は東寧の自動車廠で方面軍の技術部幹部候補集合教育を受けたあと七月初旬哈爾濱の兵器学校へ入った。入ソ後収容所で聞いた話では阿城へ終戦直前にソ連大戦車兵団が襲い殆ど全滅の悲運に見舞はれたとの事であった。
明日にも哈爾濱へ敵空挺部隊が降下するとか、戦車が襲うとの情報で幹候も一兵卒となり校外に散開、タコツボで待機中、十五日正午校庭へ集まれとの命令があり集合、そこで終戦の玉音放送を拝した。
区隊付小笠原軍曹が大地にひれ伏して号泣された姿が彷彿と甦る。
これら一連の事をふり返り私を救ってくれたとしか思へぬ運命の数奇を感ぜずに居られない。即ちソ連の満洲侵略一ヶ月少し前までソ連軍の目鼻先にある東寧国境に居たが、これがもう少し延びていればどうなっていたであろうか。入校が哈爾濱でなく阿城であればどうなっていただろうか。又幹部にはならず昭和十九年末応召部隊と共に九号演習といわれた動員で出て居ればどうなっていただろうか、いろいろ難を免れていることを思ひ巡らせば生かされて来たとしか思へない不思議の連続であった。
その後シベリアから帰国まで、幾度死線を越えて来たことか。このままで居ればいつまでも帰国できぬと考え一年間脳神経障害を装い通し漸く帰国出来た。それを詳しく述べる紙数はない。いづれかの機会に―。
さて一〇月末ナホトカから病院船高砂丸に乗船、十一月二日夢に見た祖国の舞鶴港に上陸、国立舞鶴病院へ入り、中旬に金沢へ着き再び出羽町の国立金沢病院へ入れられた。仮病を担当医伊藤、由雄両女医先生に説明しわかって貰へたが、御苦労なされたのだから休養と思ってそのままおいで下さいといはれ年末まで御世話になった。
国税徴収官試験
その間就職活動をしていたが、たまたま母が新聞で目にした北陸財務局国税徴収官採用試験を受けたらと熱心に進めるので、山から出た猿の如き者が専門外の憲法、商法、税法、小論文など出来る筈がなかろうと乗り気にならず、翌年一月から水道工事店へ行くことに決めていたが、母の手前一応願書を出して受験した。五〇名採用に応募者五〜六百名も居ただろう。案の定、学科はほとんど出来ず解答になっていなかったと思う。そこで小論文が「我が文化国家観」のテーマであったのでこれに集中し三年余のソ連抑留で学んだ血の思いを綴った。即ち「ソ連共産恐怖政治の現実と我国のいくべき道」として。それは私がバーム鉄道建設工事で、ブラーツクに居たときカルトーシカ(ジャガイモ)収穫作業に出された農場の、デシヤトニク(監督―六〇歳位)が私共に語ってくれたことを交えて記述したものである。彼は日露戦争に兵士として従軍、旅順で捕虜となり、四国の松山収容所での生活を話してくれたのであった。昼食時私共にふかしたジャガイモをどんどん食えとすすめ乍ら語ってくれた。(ハルピン学院出身のロシア語の出来る兵が仲間に居た。)かいつまんで記せば彼の話は次のようであった。「私の一生で一番楽しかったのは松山での捕虜生活だ。リース(白米)のカーシヤ(おかゆ)と白いパンや魚と肉、そして野菜をふんだんに与へられ、温泉にもよく入れてくれた。労働などはさせず作業は収容所の薪割ぐらいだった。町へよく遊びに出たり散歩も出来た。帰るときは皆に背広など二着づつくれた。日本人は本当に皆優しくよい人達だった。それにくらべればお前達は本当に可哀相だ」と老人は赤茶けた白毛混じりのあごひげをしごき乍ら涙ぐんで語っていたことが昨日のことの様に思ひ出される。この様なことも入れ、唯物主義が決して我国に幸せをもたらさず、精神風土に合はないことなどを強調して結んだ。特にノルマによる強制労働と日本新聞(シベリア抑留時に発行された日本人向けプロパガンダ新聞)でよく見かけた自然改造の思い上がりなど記した。これは同じ高砂丸で帰り舞鶴病院で同室し薫陶を受けた満洲協和会幹部の碩学埼玉県出身鈴木香都良氏の教へに負ふことが多い。最後に赤旗の国ソ連の横暴を憤って帰って来たのに、当時いたる所で赤旗がなびく日本の現状を怒り憂へての憂国論を「我が文化国家観」としてびっしり書いて来た。
それにしても法律知識が零点では合格など思いもよらぬと考へていたら、案に相違し年末近くなって合格通知が届き、驚いた。母の喜びは一方ならぬものがあった。水道工事店は断ることにした。
翌年二月から三月に当時大手町にあった金沢市立図書館で合格者五〇名の講習が行はれ、三月下旬試験があって二五名が大蔵事務官に任官した。私も末席を汚し金沢税務署勤務を命ぜられたが、独身は私だけであり、妻帯者でも北陸三県の遠隔地へ赴任したのを考へれば、金沢署の赤旗が強くそのためであったのだと思った。使命を感じ反組合活動をしたことも今は半世紀も昔のことになった。これもソ連抑留で血の出る実地経験学習があったならこそ合格採用の幸運を得られたのであり、塞翁が馬であった。
聖戦大碑実現へ数々の不思議
しかしどうしても税金取りと役人は性に合はず五年くらいでやめ、自営独立開業へ飛び込みあらゆる辛酸をなめることになった。水道設備業・建設業での奥を超へる貸し倒れ、又数件の保証人となり、一時に数千万円をやられたりして破産宣告も受けた。しかし私は人を苦しめず、情けをかけ救っただけ不思議にも救ってくれる方々が現れ、生き延びられた。これも誠に神秘というよりない。
ただ記して置きたいのはいろいろ営んだ生業が困難なときでも反共憂国行動を絶やさなかったことである。特筆できることを二〜三上げれば、昭和二四年初めから香林坊での反共壁新聞、昭和三七年四月のフェドレンコ・ソ連大使来沢時に於ける北方領土要求単独自動車デモ、昭和四七年九月の田中訪中時に於ける首相への建白書渡し、又平成四年エリツィン大統領来沢時(取止め)の北方領土要求看板設置事件等々その他数多くの行動を実行して来た。
平成七年となり、年頭より謝罪反省の叫び高まることを憤り一月三〇日「亡国謝罪病を斬る」講演会を催した。そのあと三月三日東京でのNHK偏向抗議デモ参加の際草地貞吾先生(以下先生)のお元気なお姿を拝しその年七月二三日金沢での英霊感謝大行進にお呼びしたことが大きな宿縁となり私が長年温めていた大東亜聖戦大碑建立の志を申し上げたところ先生も全く同感であり、肝胆相照らすこととなったのである。誠に不思議な御縁でなくてなんであろうか。先生との奇しき出会いこそ本年八月四日の大碑実現への偉大な神のお引き合わせであった。その他この大碑募金中での不思議を二〜三申し上げ終りたい。
募金申込者に順番をつけたが丁度一千番目の応募申込者が一千万円であり全く考えられぬ不思議な符合であった。その方の電話番号にも一千番が入っている。故意に順番を合はせられるものではない。そしてこの建立に妨害行為をした戦友関係団体の長と事務局長が相次いで死亡、その後これら両団体の募金がスムーズになったことも不思議であった。又地鎮祭(三月二一日)と建立記念式典(八月四日)の両日共暦では天赦日と大安が重なる一年にこの二日だけしかない本年最高の大吉日であった。
時あたかも今年は日本民族の心が最も高揚した神武紀元二六〇〇年(昭和十五年)から丁度六〇年目の本家帰り、元へ還る還暦の年であり、且白人横暴の二〇世紀を清算するに相応しい西暦二千年の二〇世紀末である。そして最もびっくりしたのは完成式典が大正十二年八月四日の大正を平成に替えただけの私の誕生日そのものであったことである。以上は、すべて人為的ではない。これほど多く符合することがあり得るだろうか。昭和が平成になったり、この年が紀元二六〇〇年であり、又西暦二千年であり、又この日が天赦日で、大安であり、慶祝軍楽演奏が催された厚生年金会館の会場が一年前からの予約制で良い日が全てふさがっていたのに式典に近く問い合わせ、この日が丁度空いていた。すべて符合する神秘としかいい様のない不思議の連続であった。
結び
数ある不思議の中で最大のものは何といっても草地貞吾先生とお会いできたことであり、すべてに意義のある、最も素晴らしいこの佳き年の最も佳き日に大東亜聖戦大碑を完成できたことである。とるに足らぬ私が戦争中でも戦後の事業でも常に生死の瀬戸際まで生かし続けられ、聖戦大碑のために先生と出会い肝胆相照らすこととなり、それによって実現できたことは誠に深淵広大無辺なる神の意志を感ぜずには居れない。更に地元石川県に於いては、私が現在経営している環境公害研究センターを通じ古くから深い絆で結ばれている県政の重鎮であり、英霊にこたへる会石川県本部会長の米沢外秋県議に建立副委員長になって頂いたことも大いなる天恵であった。
建立実行委員長としていささかでも両先生にお尽し出来たことを無情の光栄として只々感謝、感激してゐる昨今である。
私共は共々聖戦大碑建立実現を以て終りとせず、日本再生の一里塚と考へてゐる。
誇りある祖国が、いはれなき誹謗中傷によって魂まで奪はれた。日本人であり乍ら自らの國を侮る様にしむけられた悪質な戦後謀略は、心の公害を生み、國が精神異常にさせられている。最近の信じられぬ諸犯罪の多発は一個の命より数億兆倍否無限に重い日本国家を殺していることが原因である。すなはち遠い祖先から延々と受け継がれた尊い伝統文化・國柄の破壊=國殺しへの天譴でなくてなんであろうか。その覚醒を促すため、大碑から神洲の正気を澎湃せしめ我民族本来の姿を取戻す原動力たらしめねばらなぬ。