シベリア・バカマネの記
わが孤軍奮闘50年余年

(平成15年)

日本をまもる会会長、大東亜青年塾塾長

中田 清康


想えば私にとっての戦後半世紀余は、すべてソ連強制抑留体験で得られた信念からの行動に終始してきたといえる。シベリア抑留にかんしては、多くの方々による手記があるので、私はラーゲル(戦争捕虜・政治犯などの強制収容所)生活は除いて、帰国前1年間のバカマネ(精神異常のフリ)とその後の特異な行動を選んで述べたい。
「人間万事塞翁が馬」という。顧みれば、すべて天命の不可思議によって生かされてきた己を感じている。
昔、戦国武将・山中鹿之助が「われに七難八苦を与へ給え」と祈れる故事、苦難に耐え己を向上練磨するその精神を偲べば、自ら求めたものではないが、シベリアから帰り、その後、もろもろの苦難に耐えながら信ずる行動を続け、乗り越えてこられたのも、抑留の賜物といえる。天恵であり、ただ感謝する―。

以下、本文に入るに先立ち、私の人生で特異なものを整理してみると次のようになる。

1 昭和22年〜    バカマネ闘争1年
2 昭和24年〜    税務署反組合闘争
3 昭和37年4月13日  ソ連大使へ北方領土要求デモ
4 昭和47年9月26日  田中首相訪中建白書
5 平成4年9月    エリツィン大統領看板事件
6 平成12年8月4日  大東亜聖戦大碑完成
7 平成14年9月29日  大東亜青年塾開塾

バカマネ1年、悲願の帰国

10月ともなればシベリアの寒気は日増しに厳しくマイナス一〇度を超える日も多い。

この年(昭和22年)のエタップ(日本への帰国が許された者)からも除外され、また厳冬を越さねばならぬと思えば、何ともいえぬ寂寥の情にかられ、故郷への想いは募るばかり。

反動的言辞と作業サボタージュで吊し上げられ、常習犯として民主連盟(日本人を共産主義に洗脳する日本人組織)からにらまれている私が、エタップから外されるのは当然であった。しかし多くの戦友は栄養失調や作業事故で死んでいく。そのように凍土の土になれるか!

正月も3回目。なんとしても早く日本へ帰らねばならぬ。よい方法はないか。悩みに悩んだあげく、病気になり入院する以外にないと思った。即実行だ。昔、母がよく私に話して聞かせた、私が小学1年生のとき風邪からひどい肺炎になり一学期間休んだことを思い出した。

まず風邪をひこう、と毎日作業終了後、腹ペコであっても「食欲がない」と隣の者にパンを与え、さらに夜中に凍てつく中を裸同然で屋外便所へ行き、身体を冷やした。3、4日間それを続けたら熱が出た。38度以上にならねば休ませないので作業に出て、その翌朝、高熱でラーゲルの休養室へ入れられたが、40度以上が二日続き、ついに念願の入院となった。

タイセット地区303病院へ――。高熱にうなされながらトラックに乗せられ命がけの入院を果した。

それから2、3日高熱が続いたあと、朝方、隣席の患者(野口少佐)が、
「だいぶ熱が下がったようだ」
と私の頭に手を当て言うのが聞こえた。

これはいかん、熱が下がれば、ふたたびラーゲルへ戻される。そこで私はとっさにバカマネをはじめたのだ。

入院だけ考え、あとのことは考えていなかった。もの言えばバレる。無言だ。入院後は高熱にうなされ、しゃべらず、ほとんど食事もとらず粉薬だけを飲んだ。それまで無言が続いたのでよかった。

この時から翌昭和23年10月31日、シベリアからの復員船・高砂丸乗船まで丸一カ年無言の行を通した。

「バカ・アホ・オシ」
なんといわれようが聞こえぬふり。なるべく口をだらしなく空け、ポカンと空をみつめてしまりない顔をつくり、咽から手が出るくらい食べたいパンを放り投げ、たまには他人の物を盗って食う。パンは投げる回数が多ければ誰も非難しない。時には備品をひっくり返したり、突然、大声をあげたり、わけのわからぬことをブツブツ言ったりした。祖国へ帰らねば、の一念である。

昭和23年4月。いよいよエタップ選定の日が来た。日本へ帰国を決める身体検査だ。誰かが私を引っぱって検査院の前へ連れていった。検査員は日本人軍医とロスケ(ロシア人)女医だった。軍医が、私の耳横に口を近づけて何か言って反応を見たり眼を調べたりしたが、最後はニヤリと笑って通してくれた。仮病成就、天にも昇る気持であった。帰国してわかったが、「脳神経障害」の病名がついていた。その5、6日後、タイセット二二ラーゲル(帰還者集合収容所)へ送られた。ここで9月中頃まで待機、みな軽作業に出ていたが、私は病院にいたときどおり無言と奇行を繰り返した。

集合がかかっても一切、出ることなく、集会や赤旗の歌や「インターナショナル」(労働歌、昭和19年までのソ連国歌)の合唱などで、みなが気勢をあげていても参加せず、退屈以外はバレぬよう心がけるだけでよかった。

9月中旬すぎ帰還貨車につめこまれ、ナホトカへ着いたのは9月末頃であった。最終検査もあったはずだが、これはなぜか覚えていない。

10月末、高砂丸ナホトカ入港、31日乗船。一人ずつ名簿と照合しタラップを上る。

バカマネは最後までバレず、なんなく関門通過。顧みればバカマネの一年は、じつに長かった。何を言われてもポカンとすることに徹しただけであるが、そのこと自体で、あらゆることに常人以上に気を使ったのである。寝ていても、歩くことも、食事も、知人に会った時など特に―。

しかし、ついに成功した。

故郷へ

船員、看護婦さんからの、「長い間、御苦労さまでした」の言葉にただ涙。逐次、船室が割り当てられ、お茶とせんべいが出て復員業務が始まる。

この時、アクチブ(共産党の日本人活動分子)が、
「お茶一杯にだまされるな」
とふれまわる。
このバカどもに苦しめられたのだと思ったが、誰も何もいわない。彼らへの恐怖がしみ込んでいるのだ。

みな故郷の話で喜びに満ちている。船はとうにナホトカを離れ日本海のただ中に出ている。

「苦しかったシベリアよ、さらば」
だが甲板へ出て別れを惜しむ者は少ない。

しばらくして食事になった。またバカどもがふれ回った。
「このメシ一杯で吉田反動内閣にだまされるな」
であった。3年振りの白い御飯に喜びをかみしめている時に―。やはりみな無言である。突然、私は立ち上がり叫んだ。

「ここは日本だ。我々を苦しめたこいつらに、めしを食わすな!」
帰国第一声であった。

ああ生きて、ものの言えるところへ来た。このときの喜びこそ生涯、忘れることができない。そして、これがこのあと続く私の行動のスタートでもあった。

周りの者は、フヌケだと思っていた無言の私が、突然、大声をはり上げたのであっけにとられた。シベリアでアクチブに思うままに操られてきた、その惰性がまだ取れぬとき、突然、無言だった私が叫んだのだ。驚いたのも無理はない。しかし私に続く者があった。

「そうだ、ここは日本だ。ソ連ではない。アイツらの根性を叩きのめせ」

ようやく、みなが「そうだ、そうだ」とどよめき、アクチブは小さくなり、2日間めしが食えなかったはずだ。

その後、303病院から戻ってきた誰もが私に、
「あやしいと思っていたが、やはり仮病だったのか」
と驚きとともに感心してくれたのは嬉しかった。

翌々日、沖合からはるか遠くの故国の島影に涙しながら、やがて舞鶴港桟橋へ接岸。私にとっては8年ぶりの祖国であった。

スピーカーから「長い間御苦労様」の声と「お帰りなさいお父様お兄様」の歌が流れる中を上陸。一般組健康者は消毒や復員手続きが終わって2、3日後舞鶴駅から各自の故郷へ、病人組は戦時中の海軍病院であった国立病院へ入った。ここに10日間ほどいる間、帰還手当の500円は蒸しさつま芋と饅頭代になった。食事で出た鯖の塩焼きはこんな美味しいものがあるかと骨までかじった。

さて金沢へ帰ってからとんだハプニングがあったことを聞いた。

それは一般組も病人組も区別なく帰国が報ぜられたので、一般組が帰って来たとき家族と町内の人たちが揃って駅へ迎えに来てくれたらしい。ところが私が下りて来ない。そこで県庁へ問い合わせたら、
「お宅の息子さんは、気の毒ですが頭がおかしくなって舞鶴国立病院に入っているので少し遅れる」
と言われビックリ仰天したのだ。県から知らせがあり10日ほど遅れて金沢へ着いたら、家族だけが迎えに来ていた。

「ただいま帰りました。ご心配かけました」という私をつくづく見て母たちが「大したことないね」と言っている。前述のことを聞いているとは知らず「何でそんなこと言うがや」と言ったら、県庁で言われたことを聞いてやっとわかり、仮病だと説明したところ、ほんとうに喜んでくれた。やれやれであったが、まだ家へは帰れず、金沢国立病院へ向かった。当時の国立病院は戦時中の野戦病院のバラックであった。引揚者が多く、その後いっしょに商売した林虎彦もいた。

翌朝、荒涼たるシベリア帰りからみれば輝くような伊藤・由雄両美人女医さんが回診に来られたので詳しく仮病の事情を説明し「すぐ帰宅させて欲しい」とお願いしたところ、「よくわかりました。しかし長い間、ご苦労なされたのですから、官費旅行と思ってここでしばらくお休みください」といわれ、家へ帰っても食糧事情の悪い頃であり、仕事もなくブラブラしているのは申し訳ないと思ったので12月いっぱいお世話になることにし、その間、就職活動ができたことはありがたかった。

国税官から始まった憂国運動

町を歩き、募集の張り紙の出ていた天池管工という設備会社に翌年からの就職を決めてきた。家へ寄ってそれを話したところ、母から新聞に財務局で募集している国税徴収官を受けたらと強く勧められる。試験科目を見て自分にはできるはずないと思ったが、母の願いを聞き、11月末に願書を出した。

12月中旬、北陸財務局で試験があった。受験者はほとんど外地からの引揚者で500人以上いただろう。この中から50人採用だというから絶対、見込みなしだと思った。大きな部屋に分散し受験した。科目は憲法、民法、商法と「我が文化国家観」という小論文であった。私のような山から出た猿のごとき技術屋にわかるはずもなかったので名前以外ほとんど書けなかった。ただ小論文だけ時間つぶしに書いた。シベリア抑留生活で得た体験からソ連の現実とマルクス・レーニン主義が日本の精神風土に合わないということを強調し、これだけをビッシリ書いた。

合格するはずがないと思っていたところ12月末、合格の通知が来たので驚いた。母の喜びは一方ならず、乏しい中で赤飯を炊き、祝ってくれた。
天池管工を断り、翌年の2月、3月は合格者50人対象の講習が市立図書館であり、修了試験で25人が大蔵事務官に任命された。

管内各税務署へ2カ月くらい実習出張などがあった。そのあと私は管内最大の金沢税務署に配属された。金沢居住の妻帯者がほとんど県外(北陸三県など)へ赴任したのに独身の私が金沢勤務。ここに私の採用理由があった。

当時、官庁から町工場までも赤旗が立っていた。採用された理由は「反共反ソ」の小論文であったのだと直感した。赤旗との闘いが私に課された至上命令だった。

早速その機会が来た。署へ出勤して2カ月ぐらいたち、署内の空気もだいぶわかった頃、出勤すると掲示板に労働組合の張り紙があった。曰く「残業を拒否しよう。当局の酷使で職員の健康状態は最悪だ、胸部疾患の疑いの者が20名近くいる」。

翌朝そのすぐ横に「組合は何を言っているのだ、これくらいの仕事で病気になるのなら戦争中の人はシベリア帰りの私も含めみな病気になって死んでいただろう、バカバカしいことを言うな。健康のためなら徹夜マージャンや酒の飲みすぎをやめさすがよい」と張り出した。

労組幹部が怒り狂って堀総務課長に「あんなものを張らすな」とねじ込む。課長は私を呼び、ニヤリとして「中田さん、あまり刺激せぬように…」と形ばかりの注意をする。だが当然、彼は私の任務を知っているだろう、嬉しそうであった。同じ頃、香林坊(金沢中心繁華街)に反ソ壁新聞を張った。これは黒山の人だかりであった。当時、照田財務局長の秘書・野坂正治君(少年飛行兵出身、後の金沢財務所長、故人)と語り合って仲間に入れ行動した。金沢では約5年間、転勤もなく、ありがたかったが、役人では思うこともできず、また税金取りは情が先に立つ私では性に合わずよくダマされた。そこで辞職願を出したら、局の高畠人事課長に呼ばれ強く慰留されたが、どうにもならなかった。


フェドレンコ大使に北方領土要求デモ


その後、菓子製造、寿司屋、配管業、土建屋、飲食店、自動車練習所等々、20回以上転廃業を繰り返し辛酸を舐めたが、かたわら憂国活動を休みなく続けた。まずフェドレンコ・ソ連大使が来県し、翌13日夕方、金沢のスポーツセンターで「日ソ親善のつどい」が催されるというニュースが入った。

すぐに知人(玉村義夫)の宣伝カーを借り、看板屋・彦万堂へ行って頼み込み、夜中までかかって車の三方に張る幔幕を作った。それには「何が歓迎だ!北方領土を返せ」「魚をとらせろ」「赤旗よ、ソ連へ出て行け」などと書いた。

当日は、前の晩、テープに吹き込んだ「異国の丘」と〈北方領土を返せ、スターリンを許すな〉の叫びを大きくスピーカーから流し、一日中市中をくまなく走り廻った。多くの道行く人が手を振り頑張れと激励してくれた。駅前で、おでん屋「たこ清」のおやじが飛び出してきて「中田さんガンバレー、スターリンをヤッツケロー」と叫んでくれた。あれから41年余、いまは故人だがあの顔は忘れられない。後列、友人の巡査(故・三山清二氏)から聞いた話だが、デモについて県警本部長が田谷知事からお目玉を喰ったらしい。

朝10時から夕刻の「親善のつどい」まで、コッペパン一個を食っただけで、丸一日金沢をかけ廻った。五時頃広坂警察署(当時)前で制服の年配巡査が車をとめ「届け出をしましたか」と聞くので「夜中に準備して朝出たので届けなどできない」と言ったら笑っていた。当時は大和魂の巡査が多くいたが、いまならそうはいくまい。「親善のつどい」の会場には入口から坂道・道路まで何百メートルも赤旗の林立、その前に警官が1メートルおきぐらいに立ち並ぶ厳重警戒。その間を7、8回上り下りした。途中、帰りがけ停車したとき
「貴様、アメリカに金もらってそんなことしとるのか」と数人が叫んで私の車を取り囲んだ。私は「赤旗!貴様らこそソ連から何もらっとるんだ。ソ連へ出て行け」と言い返し押し問答で車を動かせない。巡査が数人とんで来てようやくおさまった。

その午後8時頃まで市街を「北方領土を返せ」と叫んで走り廻った。このような丸一日の反ソ北方領土要求デモを、沖縄返還を連日うるさく書き立てる新聞は一行も記事にしない。この偏向新聞こそ北方領土問題を今日まで膠着状態にした元凶なのだ。左翼とそれに占領されて来た新聞は、売国の責任をとれ!そして左翼謀略とマスコミに去勢された保守政治家や外務省のヘッピリ腰では北方領土は決して還らないのだ。

ヘッピリ腰とは結びに述べる、平成6年の河野洋平のロシア人道援助や、最近では鈴木宗男がムネオハウスを立てたことや、発電所を造り与え、ロシア住民の生活を向上させて北方領土が返還されると考える外務省の馬鹿さ加減のことだ。

エリツィンが辞める前に言った、法と正義の言がほんとうなら、そもそもスターリンが法を破ったのであり、厳たる我が國領土固有のロシアによる強奪である以上、すぐ解決するはずだ。フェドレンコ来県のとき、左翼民主諸団体はもちろんのこと、知事も市長も県議も誰一人北方領土要求を話題にした者はいない。フェドレンコが来た3、4年後、彼は次のように言っている。
「北方の島々ではロシア人の子や孫が生まれ、魚の缶詰工場など産業も育ち、今ではもうロシア人の故郷だ」
40年近く前にして、すでにこれである。嗚呼!


結び ― 盗人猛々しきロシア

北方領土奪還要求闘争は、大東亜聖戦大碑とともに私の終生をかけた使命である。長くなって申し訳ないが平成6年10月、北海道東方沖地震のとき、ある会報に載せた私見をもって結びたい。


平成6年8月中頃、我が北方領土で漁船数隻が相次いで銃撃を受け、乗組員が負傷したり、あるいは乗員・船を拿捕され、また10月4日には喫水線下に被弾した漁船が沈没させられ、乗組員が逮捕された。その同じ4日夜、北海道東方沖地震があり、北方領土のロシア人が大被害を受けたと聞く。
翌5日、ロシア外務省は昨日の漁船沈没事件で「日本漁船のソ連領海(真実は日本領海)侵犯は許し難い」と日本大使館に抗議している。その舌の根も乾かぬ同5日、ロシア政府は強奪した国後、色丹両島を中心に地震で産業が壊滅的打撃を受けたので人道支援をはじめ水産加工業の復興のため日本政府に全面支援を要請する方針を固めたという。

まったく図々しいにもほどがある。翌6日、日本政府は人道的見地から緊急援助物資を供与する方針を決めている。一方では相変わらず日本漁船が追われている。あまりにもロシアは図々しく日本は情けないではないか。

考えても見よ。他人の家へ押し入って家族を殺したり、または追い出し、「これはおれの家だ」と居座って50年、こちらがどれだけ「還せ」といっても還さず、逆に「家が壊れた。住民がひどい目に遭っているから援助をたのむ」と、追い出した家主(正しく言えばいまだに持ち主)に言えるものだろうか。「人道」という言葉を使うことさえ厚顔無恥だが、厚かましさは立派なものであり、それを受けて人道援助をしようという者は、敵に塩を送るという上杉謙信の故事を思っているのかもしれぬが、それは大違い。敵は正常な人間ではなく大盗賊だからだ。盗賊に人道援助をした親露売国の政治家は、国民の血税を浪費したのだ。自分の財産をもって償え。

こんな強盗に人道を施すのなら、北方領土で殺され、また追い出された多くの日本人の奪われた人道をどうするのだ。どぶに金を捨てるよりも悪い。居座り強盗の居住権を認め、既成事実を固めさせるのに援助することにならないか。このような、なめられっぱなしの弱腰では、強盗の後継者は未来永劫、決して北方領土を還すはずがない。

50年前、我が国が戦争継続不可能にまで弱り果て、戦う力なきことを見越して、日ソ中立条約中であるにもかかわらず突如、侵略をはじめ、終戦後9月になっても進撃を続け、住民を殺し、追い出し、あるいは逮捕して強制労働に駆りたて、北方領土はそのまま強奪して居座り続けている。その後も漁船拿捕、銃撃も含め、あらゆる不法、無道、非人道を繰り返して現在に至っている。

領土のみでなくシベリア強制抑留も含め、日本人に筆舌に尽し難い非人道、屈辱と犠牲を与えて来たのだ。北方領土(南樺太、千島全島及び北樺太の石油・石炭採掘権まで)を返し、かつ不法非道の数々の補償謝罪をしても足りぬロシア(旧ソ連)なのだ。

ところが謝るどころか、強奪した者も還さず援助まで求むという。この天文学的図々しさこそ、本当はアジアから誉められることこそ多いはずなのに謝罪、謝罪とぺこぺこしている日本政治家は、その爪の垢でも煎じて飲むがよかろう。

HOME