『亡国日本人たち』の蠢き
(平成13年)

中山 清尚

『大東亜聖戦大碑』に対して、あの手この手の中傷がかまびすしい。五月蠅をウルサイと読むが、まさに、その頃をピークに新しい歴史教科書と公民教科書に対する賛否と共に大碑論議がうるさくなってきた。

大碑をあげつらう者は、例の如く反日日本人であるが、それに類する者たちが大碑の撤去と共に新教科書採用阻止の行動をはじめている。
私は市販本を読んでみたがその修正前の原文すらきわめて穏やかなのに、検定意見には中・韓の顔色をうかがうへっぴり腰が見え見えであり削除部分があまりにも目立ち過ぎ、骨抜きの感が否めない。それでさえも亡国の者たちは歴史をねじ曲げるもの、とか侵略戦争を肯定するものとか言い募っている。

過日、ある民法テレビで韓国の某氏が「韓国政府は格別に重視しているわけではないのだが、戦争を知らない若い層やマスコミが騒ぐので、政府としても無視できないのが実情」と述べていた。やはり最大のガンは、日本国内の『反日的日本人』の煽動なのだ。
首相の靖國公式参拝にしても昭和50年まで、春秋例大祭を中心に歴代首相の靖国公式参拝が定着していた。つまり中・韓の内政干渉的な行為は見られなかった。
しかし、終戦30周年の昭和50年8月15日、時の三木武夫首相の『私的参拝発言』を契機に、中・韓の干渉が始まったといえよう。つまり今日に尾を引く靖国参拝問題を国政問題、交際問題に意図的に拡大したのである。しかし今回小泉首相は待つこと久しかった参拝を明言された。今年こそ溜飲を下したいものである。

さていま石川県内の『反日グループ』が騒いでいる『大東亜聖戦大碑』について私見を述べ終りたい。
私は大碑建立に一灯を献じた一人として碑にある『聖戦』の大銘は日本の正義と真実を訴えるために『侵略』の蓋文字を打ち砕くことにあると位置付けている。敬愛する兄がまつられていることもあるが、戦争を美化しようなどという意識などあるわけがない。国家の存亡にかかわるような外圧が強まったとき、自衛のために『正義』を余儀なくされる。大東亜戦争は止むにやまれず開戦したのが真実である。
開戦までのすべての新聞記事をみれば、当時は日本国民のほとんどが自衛のために戦わねばならぬと考えていたことが分かる。今回確たる歴史認識など持たぬ件が無難に事を収めるための浅知恵から遺憾の意を表明したのは誠に情けない姿である。
終戦50年国会決議、村山談話は後世に恥ずべき笑い者であるにかかわらずこれから抜けられぬ日本人の誇りを失った歴史認識が情けないのでありその故にこそある聖戦大碑なのである。

本稿を6月29日に記したが、翌30日北國新聞『時鐘』は靖国問題を取り上げ、すべて私と同じ思いが記されていた。格別の感慨を味わっている。

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