大碑建立十周年に思うこと
(平成22年)
陸軍士官学校五十八期生
多治見國正
昭和14年4月1日。14歳で復興名古屋陸軍幼年学校第四三期生に入学することが出来た。
総員150名。三クラスで私共第三訓育班50名の生徒監は、陸士四二期(熊幼二七期)陸軍少佐野村正實生徒監で卒業までの三年間、教育薫陶を受けた。戦後の私の人間形成は、この教育の父の影響大なる者があったと信じている。生徒監がソ連から帰国後は、「親父」を中心にしばしば『三訓会』を開いたが、昭和58年2月9日、抑留中の持病が再発し、故郷博多で他界された。盛大な葬儀の後、四十九日が過ぎ、皆の声で『野村正實中佐追悼録』を8月6日に刊行することが決定。当時博多の村田機械に勤務中の私に、編集責任を命ぜられた。序文を陸士四二御同期の、元皇族竹田宮恒徳王殿下にお願いした。文中、陸士三九期元関東軍作戦班長、朔北会会長、日本銃剣道連盟副会長、草地貞吾先輩の『野村君との出会い』を拝読し、草地大先輩と、私の最も尊敬する野村生徒監との関係をはじめて知ることが出来た。
それは、共にソ連に長期抑留され、昭和31年12月26日第11次帰還者として、舞鶴に上陸されたこと(ハバロフスクの同一分所で起居を共にされていた)。帰国後、野村さんは、会員の多い朔北会福岡支部をまとめられ、草地会長と共に『朔北の道草』の刊行・帰国上陸地舞鶴に『望郷慰霊の碑』の建設等に尽力された。又銃剣道八段、福岡県銃剣道連盟会長の野村さんは、全日本銃剣道選手権大会では副会長の草地さんを常に訪ね、何かと話し合はれた由。以上の趣旨の吾が恩師を称える追悼文を拝読して、15年後の平成10年正月、世田谷偕行会の賀詞交換会で、草地先輩より「石川県護国神社内に、私が建設委員長になり、『大東亜聖戦大碑』を建設することになった。募金活動に御協力願いたい」との要請があった。小生仕事も一段落していたので、其の趣旨に賛同し、全力を傾注して募金活動を開始した。特に団体刻銘に重点を置き、偕行誌に協力の記事、広告を掲載。又県偕行会、陸士各同期生会、入手した全国戦友会名簿により各責任者に募金の協力を呼びかけた。2年半後の平成12年8月4日、碑は立派に完成し、式典が行はれた。それから10年、多くの関係者が他界され、板垣護持会長も86歳。10年間、本当に御苦労さまでした。世代交代で最適任の田母神前空幕長が、新たに護持会長をお引き受け下さった由。心より歓迎し御祝いを申し上げます。