大東亜戦争は正当防衛であった
(平成15年)

山下 公仁

インチキ東京裁判を抜きにして観れば、大東亜戦争とは一体どういう戦争であったのかと言うと、日本はただ負けたから悪者にされただけである。なぜなら「南京事件」やその他諸々の事件についても、それらをデッチ上げたり、「東京裁判」のような不当な裁判をしなければ、連合国は正当化できなかったからである。人間一個人でも40年も生きれば、いかがわしいこともしてきている。わずか1、2年をふり返っても恐ろしいものだ。まして何千年もの長い歴史を持つ国家は、試行錯誤の連続である。その中には、失敗やいかがわしい出来事も数多くあったに違いない。だが、それでもあえて日本は正義であったと思う。各論を総論に押し広げるのは間違いであって、大東亜戦争は肯定されるべきである。大局だけで見て小さい事は目をつぶれ、というのではない。日本軍にも多くの落ち度があったのはおそらく事実であろう。だがそれを指摘するにしても、同じレベルや条件で比較せよと言うことだ。

日本は国家的及び組織的の違法行為は侵していない。法的にはもちろん、道徳的にも非難される筋合いはない。あらゆる視点から眺めて日本に非はないのだ。反省すべき否定的な面があるとすれば国内的な問題ぐらいしか存在しない。その国内問題と言ったところで、当時の戦争はトータル・ウォーと言われる全面戦争である。戦時中のことをやたらに軍国主義だと言って否定的に非難するが、戦争になればどこの国でも軍国体制を採るのは当然で、国家総動員や戦意高揚のための政策は常識である。それによく混同される事だが国内体制の問題と対外責任とは別次元の問題なのだ。
国際責任にしても戦争は何百万人もの兵士が戦うのだから、中には通常の戦争法規違反を犯す者が双方に存在するのは当然である。通例の戦争犯罪を犯さないで済む国はないのだ。その個人の犯罪行為を持ち出し、国家として負う国際責任の問題にすり替え、常に日本は断罪された。

それに対して米英をはじめとする連合国は戦闘中も戦闘後(停戦後)も明白な国際法違反を犯している。まず、戦闘中においては、無差別じゅうたん爆撃、つまり軍事目標主義(敵の都市村落等に対して砲爆撃を行うにあたり、それらが「防守されている」場合には軍事・非軍事の区別なく砲爆撃が許される。その他は軍事目標だけ)の違反である。

「防守」というのは、占領の意図をもって都市等に接近してくる地上軍に対して、その都市等に軍隊がたてこもって敵の占領を阻止する場合に言われる概念(防衛手段が存在するだけでは防守とはいえない)である。だから東京や大阪に高射砲陣地や飛行場があるからといって無差別爆撃をしていいわけではない。
もちろん原子爆弾も明らかな国際法違反だが、それは
(1)無差別爆撃
(2)不必要な苦痛を与える兵器の使用
(3)毒ガス禁止の類推適用
の三重の意味での国際法違反である。それを二発(ウラニウム爆弾〈広島〉とプルトニウム爆弾〈長崎〉)も実験のために使用した。その他捕虜虐殺などの戦争法規違反を犯している。

日本は捕虜に対する待遇が決して悪くなかった事は赤十字国際委員会や連合国の一部も認めていた。
例えば、昭和17年11月24日付の英紙デイリー・メールは、「日本軍は捕虜を優遇」の大見出しの下にイギリス陸軍省は1943年1月6日に捕虜に関する詳細な発表を行い、「その生活状態は満足すべきものである」と述べた。さらに1943年10月10日、ロンドンで開催された被抑留者親族会議において、万国赤十字社極東捕虜局のキング委員は、「日本の捕虜収容所では未だ嘗て虐待行為は見られず、捕虜は十分に待遇されている」と報告している。
これらの事実は、日本軍に捕虜虐待の組織的企画があったわけではないことを示している。むしろ物資不足に喘ぎ、捕虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。

それに対して米軍は、特に海兵隊は太平洋戦線では日本兵が投降しても捕虜としなかった。昭和2年に大西洋横断の単独飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグ大佐が南太平洋戦線を視察した時の記録『リンドバーグ大二次大戦日記』が明らかにしているように、昭和19年8月30日、彼の日記には、「……敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受ける為に連行され、あとの連中は『一人も捕虜にされなかった』という」とある。
また、昭和20年6月11日には、「……ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。……地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることに変わりがない。『汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり』。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ」と記しているように、連合軍が捕虜を一人もとらずに虐殺した例は枚挙に暇がない。この背景には、日本兵に対するジャングル戦は、米兵から見れば、インディアンとの戦闘のように掃討戦として意識されていたふしがある。
もちろん交戦法規によると、本来捕虜は投降してきたからといって必ずしも捕虜として認めているわけではない。だがこれらの事実が示しているように、米軍は極力捕虜を捕らないようにしていたのに対して、日本軍は出来うる限り捕虜を認め、その扱いも十分に配慮していたのである。

連合国はそれら戦闘中の違法行為に止まらず、戦闘終了後も国際法を無視し、自ら発したポツダム宣言すらも無視したのである。占領政策そのものがそうであるし、その代表が先に示した東京裁判である。また捕虜を抑留し強制労働させ、その他多数の条約違反も犯した。東京裁判はそれらを覆い隠すために行ったといっても過言ではない。

それに日本は共同謀議があったとして「平和に対する罪」を裁かれたが、実際の共同謀議は米英の側であった。連合国の対日戦争共同謀議はルーズベルトとチャーチルによって行われ、昭和16年10月の時点で対日戦を決意している。対独交戦中のチャーチルは大西洋上での会見で米国の参戦を熱烈に希望したのである。
それに同感の意を表明したルーズベルトは、反戦論者の有力な議会および国民に対して宣戦承認させることの困難を説きながらも、最後には「宣戦布告」なしの実践に踏み切る用意までも語っている。これは支那の蒋介石にも通報されており、蒋介石は早期参戦を要求している。ルーズベルトは三選に際して「自分が大統領となる限り、海外での戦争は断じてあり得ぬことを繰り返して誓う」と演説していたため、国民に宣戦承認させることは困難であった。
そこで、昭和16年11月25日ルーズベルトは政府及び軍首脳を招き密談し、日本を先攻させる方法を協議し、その時、日本は12月1日に攻撃してくるであろうことまで予言している。そして翌日の11月26日、それに基づく最後通牒であるいわゆる「ハル・ノート」を日本は突き付けられ開戦せざるを得なくなる。



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