日本統治時代の朝鮮の教科書

일본 통치 시대의 교과서(한국어판)

針原 崇志
(Harihara Takayuki)

日本統治時代の朝鮮では、皇民化教育が行われ、日本語の使用が強制されて朝鮮語の使用が禁じられた。
そして朝鮮の文化を抹殺し、朝鮮語や朝鮮の歴史を教えることは禁じられた。
・・・そのように一般的に認識されています。
日本でも韓国でも、教科書にそう書かれ、学校教育でそう教えられているのですから、やむを得ないことです。

たしかに、韓国併合によって朝鮮が日本の一部となったので、日本語が「国語」として教えられました。
そして内地同様、天皇を敬い、皇室を尊重する教育が行われていたのも間違いではありません。

しかし一方で、朝鮮語の授業が行われたほか
朝鮮の文化や地理、歴史も教えられていました。
そして右の写真のように、終戦に至るまで
朝鮮語の使用が禁じられることはありませんでした。

その事実を御理解いただくため、日本統治時代に
朝鮮の普通学校で使われていた教科書を紹介いたします。
(ここに掲載したのは、復刻版〔あゆみ出版〕です)

普通学校とは、朝鮮の子供たちに
小学校教育を施すための学校です。
つまり、朝鮮の子供たちのために書かれた教科書です。


1945年8月14日(終戦前日)の『毎日新報』
wikipedia「ハングル専用文と漢字ハングル混じり文」 
ここでは、単なる証拠資料として提示するだけではなく
当時の教科書を通じて日本統治時代の朝鮮の雰囲気を感じていただきたいと思い
さまざまな科目の教科書を掲載いたしました。

「反日」も「嫌韓」も、ここでは一時休戦して、どうぞリラックスしてお楽しみください。

※ このページでは、ウィキペディアに掲載されている写真を多く挿入したほか、「釜山でお昼を」というホームページの写真も数多く使用させていただきました。
  昔の写真のほかにも、貴重な資料も数多く掲載されているので、ぜひご覧ください。管理者さん、ありがとうございます。

 
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皇民化教育

日本統治時代、 朝鮮語ではなく日本語が 「国語」 として教えられ
教科書は基本的に国語である日本語で書かれていました。
そして天皇を敬い、皇室を尊重する教育が行われ、教育勅語も教えられました。
日本人の子供たちと同様の教育が、朝鮮人の子供たちにも施されたのです。
朝鮮が日本の一部となり、朝鮮人が 「日本国民」 となった以上
子供たちを立派な日本国民に育て上げるための教育が行われたのは当然のことです。
 
普通学校 国語読本 巻一 普通学校 国語読本 巻一
 
普通学校 国語読本 巻三 普通学校 国語読本 巻一
 
普通学校 国語読本 巻一
 
普通学校 国語読本 巻一
  
 普通学校 書キ方手本 第二学年用 上 普通学校 書キ方手本 第一学年用
     
普通学校 書キ方手本 第四学年用 上  普通学校 書キ方手本 第三学年用 上
  
 普通学校 修身書 巻一(児童用)
 
 
 普通学校 修身書 巻一(教師用)
  
普通学校 修身書 巻二
  
普通学校 修身書 巻三
 
 普通学校 修身書 巻六
 
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朝鮮語

以上のような皇民化教育が行われる一方、朝鮮語の授業も必修科目として行われていました。
1938(昭和13)年以降は必修科目ではなく、授業を行うかどうかは校長の判断にゆだねられることとなり
1941(昭和16)年以降は朝鮮語の授業は行われなくなりましたが
冒頭の写真のように、その後も日常生活では普通に朝鮮語が話され、ハングルが用いられていました。

韓国併合時には就学率(書堂も含む)は10%程度でしたが、1937年には36%にまで達しています。
その間、朝鮮総督府はハングルの普及に務めていたのです。
朝鮮総督府が朝鮮語の使用を禁じた、などというのは全くのデマです。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻一  普通学校 朝鮮語読本 巻一
 
 普通学校 朝鮮語読本 巻一
 
習字でも、ハングルの書き方が教えられていました。
ハングルの毛筆、特に草書体はあまり目にすることがないので、なんだか新鮮です。
 
普通学校 書キ方手本 第二学年用 普通学校 書キ方手本 第一学年用
 
普通学校 書キ方手本 第四学年用  普通学校 書キ方手本 第三学年用
 
 学年が上がるにつれて、多くの漢字が使われるようになります。
いまの日本の国語と同じです。
漢字が多く使われていれば、ハングルを読めなくとも
おおよその内容を把握することができ
日本語と朝鮮語とが文法的に近い言語であることを実感できます。
  
 
普通学校 朝鮮語読本 巻一 
  
 
普通学校 朝鮮語読本 巻二
  
普通学校 朝鮮語読本 巻五
 
普通学校 朝鮮語読本 巻六
 
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漢文

 日本の尋常小学校では漢文の授業は行われていませんでしたが
朝鮮の普通学校では第五学年から漢文の授業も行われていました。
おそらく、朝鮮では伝統的に漢文が公式文書として用いられ
書堂でも漢文を中心に教えられていたことを考慮したのでしょう。

朝鮮の歴史的文書や石碑のほとんどは漢文で書かれているので
漢文が読めれば、朝鮮の歴史をより深く知ることもできます。

一方、いまの韓国では漢字をほとんど教わらず
大学生でも漢字を使いこなすことのできる人は少ないと聞きます。
漢字が分からなければ、漢文はもとより
朝鮮語で書かれた上の教科書(子供用)を読むのにも難儀するのではないのでしょうか?

韓国では日本統治時代の教育を「愚民化教育」と教えられているようですが
当時の教育と今の教育のどちらが「愚民化教育」でしょうか?
 
普通学校 漢文読本 第五学年用
 
普通学校 漢文読本 第六学年用
 
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朝鮮の文化

朝鮮語のみならず、朝鮮の文化についても教えられていました。
「朝鮮の文化を抹殺した」などということはありませんでした。
もっとも、「祈祷で病気を治す」といった原始的な文化や
白丁(はくちょう・はくてい=被差別民)などの非人道的な文化は否定しましたが
それらは大事に残しておくべき朝鮮の偉大なる文化だったのでしょうか?
  
김장(キムジャン)

キムジャンとは、キムチを漬けこむ行事のことです。
秋に収穫した野菜を、冬の到来に備えて保存するために
立冬の前後におこなわれます。
年中行事の一つとして、冬の風物詩にもなっています。
 キムジャンの様子
「釜山でお昼を」
 
普通学校 朝鮮語読本 巻四
 
寒食(かんしょく)

寒食とは、冬至から105日目の日の前後2~3日に
火を焚かずに冷たい食事をした風習をいいます。
中国の南北朝時代、晋の文公が功績のあった忠臣に褒美を与えようとしましたが
その忠臣はこれを拒み、山に隠れました。
そこで文公は、この忠臣を探し出そうとして山に火をつけましたが
その忠臣は山を下りず、焼け死んでしまいました。
文公や人々がこれを悲しんで、火を使わないで食事をしたのが
寒食の起源だとする伝説があります。
今では冷たい食事をすることはなく、もっぱら墓参を行う風習だけが残っています。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻二
 
普通学校 国語読本 巻八
 
秋夕(しゅうせき)

秋夕は、上記の寒食とともに朝鮮の四名節の一つとされています。
朝鮮では、陰暦の8月15日(中秋節)前後に
祖先祭祀や墓参などの行事が行われます。
日本でいう「お盆」のようなものです。
これを韓国では「秋夕」といい、四名節の中でも特に重要視されています。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻三
 
三姓穴(さんせいけつ)

  朝鮮の神話も教科書で紹介されていました。
ここに掲げた三姓穴は、済州島に伝わる神話です。
済州島には、かつて耽羅(たんら)という王国がありました。
三姓穴は、耽羅の建国神話です。
三人の神様が出て来たとされる三姓穴は
いまも済州島の観光名所となっています。
三姓穴
wikipedia「삼성혈」
 
普通学校 国語読本 巻五
 
日の神と月の神

この話は、新羅の時代の神話です。
新羅第8代国王、阿達羅王(あだら王)の時代
浜辺に住んでいた延烏郎と細烏女が岩に乗って日本に辿りつき
日本の王国の王と王妃として迎えられました。
ところが浜辺では日や月が光を失ったため
新羅王が日の神、月の神である延烏郎と細烏女を呼び戻そうとしましたが
延烏郎は王として迎えられたのを天命だとして帰るのを拒み
代わりに細烏女の織った織物を使者に与えました。
その織物を捧げて天を祭ったところ、日や月は光を取り戻しました。
・・・という神話が描かれています。
天を祭ったとされる場所は迎日県(現在は慶尚北道浦項市)と呼ばれ
海はいまでも迎日湾と呼ばれています。
 
 
 
 
普通学校 国語読本 巻八
  
朝鮮のブランコ「クネティギ」(그네뛰기)

子供達の遊びの中にも、朝鮮の文化が描かれています。
朝鮮の伝統的なブランコやシーソーは
我々日本人が思い描くブランコやシーソーよりも、かなりアクロバティックです。

ブランコを「クネ」といい、ブランコをこぐことを「クネティギ」といいます。
端午の時期に女性が楽しむ遊びとされていて
どれだけ高く漕げるかを競い合ったそうです。
 
 普通学校 国語読本 巻一
 
朝鮮のシーソー「ノルティギ」(널뛰기)

ノルティギ(板飛び)は、正月の女性の遊びとされています。
その起源について
良家の女性はめったに家の外に出ることができなかったため
高く跳びあがって塀の外の景色を見るために
ノルティギを行った、とする説や
罪人の夫を持つ妻が、獄中の夫の顔を一目見るために
同じく罪人の夫を持つ女性と交互に跳びあって
二人で獄中の夫を見ようとした、とする説など
さまざまな説があります。 
 
 ノルティギ
「釜山でお昼を」
 
普通学校 国語読本 巻二
 
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朝鮮の歴史

普通学校では、朝鮮の歴史も教えられていました。
国史(歴史)で教えられただけではなく
国語や朝鮮語、漢文、唱歌の教科書でも朝鮮の偉人が数多く紹介されていました。
 
朴赫居世(ぼくかくきょせい)

むかし朝鮮半島南部には、韓とよばれる種族が住んでいました。
韓は、その言語と風習によって3つの種族に分けられ
それぞれの種族名とその住む地域を、馬韓、辰韓、弁韓といいます。
馬韓には50余国、辰韓と弁韓には各々12の国がありました。
新羅は辰韓の国の一つでしたが
次第に辰韓の国々を併合して強大な国になりました。
朴赫居世は、新羅初代の王です。
王は農業を振興し、国を繁栄させました。
 
普通学校 国史(上巻)
 
朴赫居世には、次のような生誕の伝説が伝えられています。

昔、辰韓の6つの村の人々が「徳のある人物を君主として国を興そう」と会議をしていると
楊山のふもとの林の中に、白馬と大きな卵が舞い降りてきました。
人々が近づくと、白馬が卵に向って平身低頭していましたが、やがて白馬は天に昇って行きました。
あとに残された卵を割ったところ、中から男の子が生まれました。
男の子を沐浴させると、その体は光り輝きはじめました。
この男の子に世の中を明るく治めてもらいたい、との願いを込めて
男の子は「赫居世」と名づけられました。
男の子は13歳にして辰韓の村長たちによって君主に据えられ、新羅の始祖となりました。

その伝説が、朝鮮語の教科書で紹介されていました。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻三
 
昔脱解(せきだっかい)

昔脱解は、新羅第4代の国王です。
昔脱解にも生誕の伝説が伝えられています。
詳しくは、下の国語の教科書を御覧下さい。

ちなみに、昔脱解は日本から渡来した人物だとする説もあります。
とすれば、下の伝説は、昔脱解が船でやってきたことを示唆しているのでしょう。
あくまでも伝説で、史実かどうかは分かりませんが
こうして日本から渡来した人物が新羅の王になる話や
「日の神、月の神」で紹介したように
新羅から渡来した人物が日本の王になる話が伝わるなど
古代、日本と朝鮮との交流は我々が想像する以上に盛んだったようです。
 
普通学校 国語読本 巻六
 
普通学校 補充唱歌集
 

新羅一統(金氏)

新羅第30代国王、文武王の時代に至り
百済、高句麗を相次いで滅ぼし、新羅が三韓統一を果たしました。

文武王の姓は「金」。
新羅には、朴赫居世を始祖とする「朴氏」、昔脱解を始祖とする「昔氏」
そして金閼智(きんあっち)を始祖とする「金氏」の3つの王統がありました。
閼智の6代後の子孫、味鄒(みすう)王が金氏最初の新羅王(第13代)となり
第17代の奈勿(なこつ)王以降長らく金氏の王統が続きました。
その後、第53代~第55代は朴氏、第56代はふたたび金氏となりましたが
第56代の敬順王が新羅最後の王となりました。
 
普通学校 国史(上巻)
 
王建(おうけん)

新羅の末期、民衆の反乱や王位争奪戦が多発し、新羅の国力は衰えました。
そして農民出身の甄萱(けんけん)が後百済を建国し
新羅王族の弓裔(きゅうえい)が泰封を建国するに至り
朝鮮は後三国時代に入りました。

王建(877~943)は父とともに弓裔に仕えました。
弓裔は当初強大な勢力を誇りましたが
その人柄はきわめて暴虐で、人心は次第に弓裔から離れていきました。
一方、王建は弓裔の部将として数多くの戦功を挙げましたが
その人柄はきわめて謙虚で、次第に人心を集めました。
そうして人々は弓裔を追放し、王建を王として迎えました。

王となった王建は、高麗の後継者を自称して、国号を高麗に改めました。
(高句麗の後期、高句麗は正式名称を高麗としていました)
王建が王となってから、高麗はいよいよ強大な国になりました。
一方、新羅は衰退の一途をたどり、ついに新羅王は高麗に降り
935年、新羅は滅亡しました。
 
普通学校 国史(上巻)
 
大覚国師(だいかくこくし)

大覚国師(1055~1101)は、高麗第11代国王・文宗の時代の人です。
文宗の即位から約60年間、高麗は最盛期を迎えました。
当時、仏教は新羅の時代以上にますます盛んに信仰されていました。

ある日、文宗が10余人の王子を集めて、こう言いました。
「だれか僧侶となって、仏教振興のために尽くす者はいないか?」
すると、当時わずか11歳だった煦(く)が
「私は以前より出家したいと思っていました。父の命に従って、僧侶になりましょう」
と答え、出家して僧侶となりました。

煦は聡明な人物で、学問も大いに進み、わずか13歳にして高僧の位を与えられました。
煦はさらに仏法を深く研究するため、宋に留学しようとしましたが、父王はこれを許しませんでした。
しかし父王が亡くなって数年後、宰相の諫言も聞かず、弟子二人と共に宋の商船に乗って宋に渡りました。
そして宋の皇帝に謁見し、名高い学者や僧侶の教えを乞い、天台宗や儒学を朝鮮に伝えました。

帰国後、煦は仏教の弘布に尽力しただけではなく
国王はたびたび煦に国政の相談したので、政治でも多大なる業績を残し
また民衆をいつくしみ、世のため人のため尽力したので
国王から民衆まで、だれもが煦を尊崇しました。
47歳にして没した際、国王は厚く葬り、「大覚国師」の諡を贈りました。
 
普通学校 国史(上巻)
 
朝鮮の太祖(李成桂 りせいけい)

高麗の後期、中国では明が起こり、元は衰退しました。
当時、高麗は元に朝貢していましたが、ここに至って
元に朝貢するか、明に朝貢するかを巡る二派が発生しました。
当初は元派が優勢となり、王は明を攻めるため
李成桂(1335~1408)等を将として挙兵しました。
ところが、明に仕えるべきだと考える李成桂は鴨緑江で兵を引き返し
首都・開城に入り、反対派の首領を捕え、次いで王を廃して新王を立てました。

その後、李成桂の威名はいよいよ高まり、高麗の朝臣の中にも
李成桂を王として推戴しようとする者が次第に多くなっていきました。

文官・儒学者であり、李成桂の親友でもあった鄭夢周はこれを憂慮し
李成桂を除こうとしましたが、逆に李成桂の一派に暗殺されてしまいました。

こうして比肩する者のいなくなった李成桂は
1392年、高麗王を廃して、朝鮮初代の王となりました。

これより以降100年間、国は平穏に治まり、民衆もやすらかに生業をいとなみ
学問も盛んにおこなわれるなど、朝鮮時代の最も盛んだった時代であるといわれます。
ハングルが創製されたのも、この時期にあたります。
 
普通学校 国史(上巻)
 
成三問(せいさんもん)

成三問(1418~1456)は朝鮮王朝の政治家・学者。
第4代国王・世宗は、民衆にも理解できる文字が必要と考え
成三問はじめ8人の学者に研究を命じました。
王命を受けた成三問は、遼東に流配されていた明の学者・王瓚(おうさん)を13度も訪ねて
音韻について学び、ハングル創製に貢献しました。
日本統治時代、ハングルは「諺文」と呼ばれていました。
普通学校 補充唱歌集
 
李退渓(りたいけい)と李栗谷(りりっこく) 

李氏朝鮮の時代に入り、それまで隆盛だった仏教は次第に廃れ
かわって儒教が盛んになり、数多くの儒学者が現れました。
中でも李退渓と李栗谷は、朝鮮朱子学における二大儒と称され
いまでも韓国の紙幣の肖像になっています。

 李退渓(1501~1570)は、本名を李滉(りこう)といいます。
幼い頃から学を好み、叔父に論語を学びました。
34歳で文科の試験に合格し、様々な官職を経ましたが
48歳で病を理由に官を辞して帰郷し、弟子の育成に尽力しました。
しかしその後ふたたび王の命を受けて
成均館(朝鮮の最高教育機関)の大司成(大学学長)や
弘文館(宮中における経典のことを掌るところ)
および芸文館(同じく文章のことを掌るところ)の
大堤学(館長)などを歴任しました。
死後、人々はその死を惜しみ、陶山書院を設けました。


李退渓
wikipedia「李退渓」
 
李栗谷(1536~1584)は、本名を 李珥(りじ)といいます。
母より学を受けましたが、7~8歳で詩文を作るほどの秀才で
23歳で李退渓に謁見した時、退渓はその聡明さに驚いたそうです。
29歳で文科の試験に合格して仕官し、様々な官職を経て
後年には吏曹判書(内務大臣)の高官まで務めました。

しかし当時、朝鮮では士林派と勲旧派の政治闘争が激しく
さらに士林派内部で、李退渓の流れをくむ東人と
李栗谷の流れをくむ西人とに分かれ、党派対立が発生しました。
朱子学の解釈の違いが、政争の具になってしまったのです。
李栗谷自身は懸命に党争の仲裁に務めましたが
栗谷の死後、党争はますます激化しました。
東人、西人はさらに老論、少論、南人、北人などの小党派に分裂し
それらの党争のため、朝鮮の政治が混乱することとなりました。


李栗谷
wikipedia「李栗谷」
 
普通学校 国史(下巻)
 
普通学校 朝鮮語読本 巻六
 
韓石峯(かんせきほう)

韓石峯(1543~1605)は、李氏朝鮮時代を代表する書道家です。
科挙に合格して文官となり、国の主要文書や碑石などに多くの書を残しました。
李退渓が祀られる陶山書院の扁額(建物や門の高いところに掲げられる額)は
当時の王・宣祖の命を受けて韓石峯が書いたものです。

韓石峯の業績として最も有名なのは、下の教科書でも紹介されている「千字文」です。
千字文は、中国の南北朝時代、梁の武帝の命を受けて
周興嗣(しゅうこうし 470~521)が作った漢文の長詩です。
4字250句、総計1000もの漢字が重複することなく用いられた文章で
中国国内はもとより、日本や朝鮮にも伝えられ、漢字を学ぶ教科書として広く用いられました。
朝鮮では、韓石峯が宣祖の命を受けて1583年に書写した千字文が最も広く普及し
書堂でも子弟教育のために使われていました。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻五
 
英祖と正祖

英祖(1694~1776)は、第21代王(在位1724~1776)。
正祖(1752~1800)は、第22代王(在位1776~1800)。
この両王の治世は76年に及びました。
その間、農業を振興し、質素倹約を尚んでぜいたくを禁じ
苛酷な刑罰をとりやめ、学問を奨励するなど、民政に尽力しました。
また、「李退渓と李栗谷」の項で説明した党争の調停にも努めたので
この両王の時代に党争は下火となり、その弊害も少なくなりました。
しかしその後の諸王はいずれも幼年にして即位したので
政権が外戚に移ることとなり、王の権威は次第に衰えていきました。
 
普通学校 国史(下巻)
 
普通学校 国史教授参考書(朝鮮事歴教材) 

国史の教科書は、あくまでも日本の歴史を中心に記述されていて
その中に朝鮮の歴史を織り込むという形で書かれていました。
しかし、それだけでは朝鮮の歴史を教えるのに不十分であるとして
教師用の国史教授参考書(朝鮮事歴教材)が作られました。
朝鮮の子供たちに、朝鮮の歴史を教えるための参考書です。
その巻末には、朝鮮の歴代各王朝の国王も掲載されていました。
「朝鮮の歴史を教えることを禁じた」などという現在の教科書の記述が
全くのデタラメだということが、このことからも分かります。
 
普通学校 国史教授参考書(朝鮮事歴教材)
 
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朝鮮の地理

地理の授業では、朝鮮の地理について
朝鮮用の教科書を用いて教えられていました。
朝鮮の偉人・英雄と同様、朝鮮の地理についても
国語や朝鮮語、漢文、唱歌の教科書で採り上げられていました。
 
普通学校 地理補充教材
普通学校 朝鮮語読本 巻四
 
 白頭山

白頭山(中国名=長白山)は
中国吉林省と北朝鮮両江道との国境にある
朝鮮半島の最高峰(2,744m)です。
その山頂には、度重なる火山活動でできた
竜王潭あるいは天池と呼ばれる
カルデラ湖があります。
韓国でも北朝鮮でも、白頭山は
朝鮮民族発祥の地として神聖視されています。
 
 
白頭山山頂のカルデラ湖
wikipedia「白頭山」
 
普通学校 朝鮮語読本 巻三
 
 
普通学校 補充唱歌集
 
金剛山

金剛山は、白頭山と並び称される朝鮮の名山です。
「金剛山」という単体の山があるのではなく
毘盧峰(1,638m)を最高峰とする
1万2千といわれる峰々を総称して
金剛山と呼ばれています。
「ダイヤモンド(金剛石)のように光り輝く山」
として「金剛山」と名づけられました。
 
wikipedia「金剛山」
 
 普通学校 補充唱歌集
 
京城(いまのソウル)

  ソウルは、李氏朝鮮時代には「漢城」
日本統治時代には「京城」と呼ばれました。
京城には朝鮮総督府が置かれ
朝鮮における政治の中心となったほか
会社や銀行も多く、経済における中心でもあり
朝鮮軍司令部が置かれ、軍事の中心でもありました。
1924年(大正13年)には、日本で6番目の帝国大学である
京城帝国大学も設立されました。
京城帝国大学には、「朝鮮語文学科」という学科も
設けられていました。
日本統治時代の南大門
「釜山でお昼を」
 
 普通学校 朝鮮語読本 巻三
 
普通学校 補充唱歌集 
 
 京城を流れる漢江は、冬には凍結して
スケートも楽しめました。
(ここ数年は凍結していないそうです)
スケートは意外と昔から
人々に広く親しまれていたんですね。
 
漢江でスケートを楽しむ人々(左上)
「釜山でお昼を」
 
普通学校 国語読本 巻五
 
平壌

平壌には、かつて高句麗の都がおかれていました。
以来、朝鮮北部における重要な拠点となり
日本統治時代にも、京城に次ぐ大都市でした。
日本統治時代、温暖で農業に適した半島南部では農業を振興し
鉱物・動力資源に恵まれた半島北部では工業を振興するという
「南農北工」といわれる分業体制がありました。
平壌もまた、付近で良質の石炭が採れたので
工業がさかんに行われました。
半島北部は、都市でも農村でも
現在よりも当時のほうがよほど豊かで平和だったでしょうね。 
 
 平壌中心部(1945年以前)
wikipedia「平壌」
 
普通学校 朝鮮語読本 巻六
 
平壌の郊外に「牡丹峰」という小高い丘があります。
日清戦争の際には、ここに清国軍の要塞
「牡丹台」が築かれ、日清両軍の激戦地となりました。
「牡丹峰」の朝鮮語読みは「モランボン」。
焼き肉のたれなどで有名なあの会社の社名の由来です。
 日本統治時代の牡丹峰
「釜山でお昼を」
 
普通学校 補充唱歌集
 
 新義州

  かつて平安北道の中心は義州でしたが
京義線(京城と義州を結ぶ鉄道)が開通した際
新義州駅が設置されました。
その後、交通の要衝である新義州駅を中心に町が発展し
1921年(大正10年)平安北道の道庁が
義州から新義州に移されました。
 
日本統治時代の新義州駅舎
wikipedia「新義州青年駅」 
 
普通学校 朝鮮語読本 巻四
 
新義州の北から西にかけて
中朝国境の川、鴨緑江が流れています。
日本統治時代、日本で最も長い川は鴨緑江でした。
新義州を流れる鴨緑江
「釜山でお昼を」
 
普通学校 補充唱歌集
 
  1911年(明治44年) 鴨緑江橋梁が完成し
新義州は国境の町となりました。
橋梁は、鴨緑江を通航する船の妨げとならないよう
橋梁の一部が開閉する旋回橋でした。
稼働中の鴨緑江橋梁 
wikipedia「鴨緑江断橋」
 
普通学校 国語読本 巻七
 
釜山港

釜山は、時に対日防衛の要衝として
時に対日交易の拠点として
古くから日本とのつながりの密接な都市です。
特に1876年の釜山港開港以来、急速に発展を遂げ
日本統治時代、釜山は平壌とほぼ同じ人口を持つ
朝鮮第三の大都市になりました。(1921年現在)

ちなみに、私が始めて覚えた外国語の歌は
小学生の頃、意味も分からずカタカナで歌詞を覚えた
チョー・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」です・・・
  
 
普通学校 朝鮮語読本 巻四
 
 普通学校 補充唱歌集
 
釜山~下関間に運航された関釜連絡船は
内地と朝鮮を結ぶ交通の大動脈でした。
戦前には、「東京発ロンドン行き」のように
日本から関釜連絡船~シベリア鉄道を経由して
欧州まで行くことのできる壮大な切符が
日本各地の主要駅で買えたそうです。
 
 関釜連絡船「景福丸」
「釜山でお昼を」
 
 普通学校 国語読本 巻七
 
湖南旅行

上の教科書には、関釜連絡船で船旅を楽しむ様子が描かれています。
下には、大田と木浦を結ぶ鉄道「湖南線」の旅行を楽しむ様子が描かれています。
当時の人々も、たまには旅行を楽しんでいたのでしょうね。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻五
 
百済の古都(扶余)

湖南線沿線の地方都市、扶余には
かつて百済の都がありました。
扶蘇山城や定林寺址など往時をしのばせる旧跡をはじめ
百済時代の遺物を所蔵する国立扶余博物館
歴史テーマパーク「百済歴史再現団地」などが
観光スポットになっています。 
扶蘇山城
wikipedia「扶余」
 
普通学校 補充唱歌集
 
新羅の古都(慶州)

新羅の都は、慶尚北道の慶州に置かれました。
三韓統一を果たした文武王の時代から
約110年間、新羅は最盛期を迎えます。
その頃仏教も学問もおおいに発展し
仏教の発展に伴い、仏教美術も進歩しました。
いまでも当時の遺構が数多く残る慶州は
「屋根のない博物館」と称されています。

下の教科書に描かれているのは
東洋最古の天文台ともいわれる
慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)です。
 
慶州瞻星台
 wikipedia「慶州瞻星台」
 
 
 
 普通学校 朝鮮語読本 巻五
 
新羅時代に建立された仏国寺や
新羅時代の仏教遺跡である石窟庵は
1995年、世界遺産に登録されました。
また2000年にも、慶州歴史遺跡地区が
世界遺産に登録されています。
石窟庵
「釜山でお昼を」 
 
普通学校 国語読本 巻八
 
高麗の旧都(開城)

現在、南北の経済協力事業
開城(ケソン)工業団地で知られている開城には
高麗の時代、都が置かれていました。
京城と開城との距離は鉄道でわずか70kmほどなので
(東京~木更津、大阪~和歌山、金沢~和倉温泉ぐらい)
日本統治時代は、鉄道を使って
京城へ通勤・通学する人も多かったようです。
 
王建王陵
wikipedia「開城」 
 
普通学校 補充唱歌集
 
普通学校 朝鮮語読本 巻六
 
 李朝時代、都は京城に移りましたが
その後も開城は商業の町として発展を遂げ、その担い手は開城商人と呼ばれました。
開城商人は全国に商業活動を展開したほか
今日の複式簿記に近い「開城簿記」を考案したことでも知られています。
 
普通学校 国語読本 巻八
 
 また開城は、朝鮮人参の名産地としても知られています。
いまは一般的に高麗人参と呼ばれていますが
かつては朝鮮人参のなかでも開城産のみを高麗人参と呼んで
特に珍重されていました。
 
普通学校 朝鮮語読本 巻八
 
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修身

 修身は、今でいう道徳教育にあたります。
修身という呼称は、四書五経の一つ「大学」の一節
自天子以至庶人 壹是皆以脩身爲本
(上は天子から下は庶民まで、第一に自らの行いを正すことが基本です、という意味)
に由来します。

欧米でも宗教教育を通じての人格育成が重視されているように
古今東西、人格育成がすべての教育の基本です。
いくら知力や体力を高めても、心の育成ができていなければ
かえってそれらを悪用することになってしまいます。
したがって戦前の教育では、修身は国語と同等かそれ以上に重視されていました。
 
学校に入ったばかりのころは、まだ字も読めないので
教科書には絵だけが載せられ、先生が説明するという形で行われました。
字を教わるのに伴い、説明文も載せられました。
第一学年用は、日本語と朝鮮語が併記されていました。
 
普通学校 修身書 巻一(児童用)
 
普通学校 修身書 巻一(教師用)
 
普通学校 修身書 巻一
 
学年が上がると、偉人の生き様を通じての教育も行われました。
その中には、二宮金次郎やナイチンゲールなど
日本の国内外を問わず、数多くの偉人が採り上げられていました。
また、李退渓や李栗谷など朝鮮人も登場しています。
修身の教科書は、偉人伝のダイジェスト版ともいえるでしょう。
 
普通学校 修身書 巻三(児童用)
 
 普通学校 修身書 巻四
 
普通学校 修身書 巻四
 
普通学校 修身書 巻五
 
日本統治時代、朝鮮総督府は病院建設や上下水道整備など
ハード面での衛生環境の整備に尽力しましたが
それとともに、修身ほかの授業の中で衛生教育を行い
ソフト面での衛生意識の向上にも務めました。
 
普通学校 修身書 巻二
 
普通学校 朝鮮語読本 巻四
 
学年が上がれば、学ぶ内容も高度になります。

ここに紹介する「公民の務」の中に、「選挙」という言葉が出てきています。
納税額による制限はありましたが、朝鮮でも地方レベルでは
朝鮮人が立候補し、投票できる選挙が行われていました。

また国政レベルでも、1945年(昭和20年)4月に衆議院議員選挙法が改正され
朝鮮でも衆議院議員選挙が行われるようになりました。
実際に選挙が行われる前に終戦によって朝鮮が日本統治から離れたため
朝鮮で衆議院議員選挙が実施されることはありませんでしたが
もし実施されていたら、朝鮮選出の朝鮮人議員が、日本の国会で活躍していたわけです。

もっとも、それ以前から内地に住む朝鮮人には選挙権・被選挙権が与えられ
東京4区選出の朝鮮人の朴春琴が衆議院議員として
朝鮮人の権利拡大を求めて国会で活躍していました。

以下、引用が長くなりますが、選挙の心構えについて
「普通学校修身書 巻五(教師用)」に書かれた文章を紹介します。

皆さんは又、道評議会や府・面協議会の議員の選挙の行われることをしっていますか。
道評議会や府・面協議会は地方共同の利益を発達させ、衆民の幸福を増進するため、
教育や勧業や土木や衛生等の仕事をするについて、いろいろな相談をするために設けられてあるのです。

皆さんも他日公民としてこの会議に加わる評議会員や協議会員となったり、
あるいはこれを選挙したりすることが出来るのであります。
評議会員や協議会員はいずれも公共の仕事の相談にあずかる大切な職でありまして、
その人の適否は地方の幸福に大いなる関係があるのでありますから
性行の善良であって意見の正しい人を選ばなければなりません。
金銭物品その他自己の利益のためにその本心をまげて選挙するようなものは、
法律上処罰せられるのであります。
なお他人に強いられて所信をひるがえしたり、あるいはみだりに投票を放棄するようなものも
愛郷の念のないものというべきであります。

また議員に選ばれたものは、その職責の重大なことを思い、熱心に共同の福利を図り、
府・面の住民の信頼をむなしくしてはなりません。
また公職の地位を利用して私利を図ったり、あるいはいたずらに部落の感情に駆られ、
党派的精神に支配されて、紛擾を起したりするようなものは共に郷里を愛護するものではありません。
皆さんは公民として、自分の府・面のことはすなわち自分のことと考えて、自らこれを治めなければなりません。



心の教育を軽視し、あるいは忌避するいまの教育では
選挙についての心構えもろくに教育されず
単なる選挙制度の説明だけに終始しているのではないのでしょうか?
戦前は、内地のみならず朝鮮でも、こうして教育されていたのです。

「戦前の日本には民主主義はなかった。民主主義は戦後アメリカから教わった」
などというアメリカによるプロパガンダを盲信している方もおおぜいいるようですが
むしろ戦前の方が、よほど中身のある「民主主義教育」が行われていたのではないのでしょうか?
 
普通学校 修身書 巻五
 
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学校生活

「学校ではしっかり勉強しましょう」というのはもちろんのこと
「休み時間には元気に遊びましょう」とも教えられました。「よく学び、よく遊べ」です。

そして教師に対しても
休み時間には、児童に遊ぶことを奨励し
なるべく教師も児童に交わって一緒に遊び、ちゃんと児童を監督をしなさい。
そして児童の好みに応じて遊び方をさまざまに変えたり
運動が過激になることのないよう注意しなさい。
また、悪い遊びをさせないよう注意しなさい。
・・・と事こまかに、休み時間における教師の心がけが指示されていました。
(「普通学校 修身書 巻一(教師用)」参照)
 
 
 
今の学校と同様、運動会や遠足などの学校行事が行われていました。
「植民地支配」などという凄惨なイメージからは程遠い
ほのぼのとした温かい学校生活の情景が目に浮かびます。
 
普通学校 国語読本 巻二
 
普通学校 朝鮮語読本 巻三
 
普通学校 補充唱歌集
 
 普通学校 補充唱歌集
 
普通学校 国語読本 巻一
 
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あとがき

いかがでしたか?
思っていたよりずっと穏当な内容だと感じられたのではないでしょうか?

日本統治時代、アメリカの軍人マッコイ少将が朝鮮を訪れて、このような感想を述べています。

我々は朝鮮というところは、地理的には大体満洲の延長であるから
相変わらず匪賊
(ひぞく)横行し、産業も振るわず、赤土色のはげ山の下で
民衆は懶惰の
(らんだの=怠惰な)生活を送っているものとばかり思っていた。

しかるに列車が一度鴨緑江の鉄橋を超ゆるや車窓に隠見する事々物々、みな我々の予想に反し
見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜々として
(ししとして=一生懸命に)耕作に従事し
平壌その他工業地の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さっぱりとした衣服をまとい
治安はよく維持されて、なんらの不安もなく、群衆は極めて秩序正しく行動し、かつその顔に憂色がなく
満洲に比べて実に隔世の感がしたのである。

(鎌田沢一郎『朝鮮新話』p330)

当時の教科書から想像されたのは
まさにこの言葉のような穏やかで平和な朝鮮の風景だったのではないかと思います。

「でも豊だったのは、日本人と一部の朝鮮人だけだ」
という反論があるかもしれません。
たしかにその通りかもしれません。
しかしそれは、日本でも同じことです。
当時は日本もまだけっして豊かな国ではありませんでした。
農村部では、口減らしのため幼い子供を奉公に出したり、身売りが行われたりすることもあった、そんな時代です。

朝鮮もまた、日本と同じように豊かで、日本と同じように貧しかったのです。
なぜなら、朝鮮も当時は日本だったからです。
朝鮮から搾取し、朝鮮を犠牲にして、日本を豊かにしたのではありません。
朝鮮も日本の一部として、産業を振興し、民衆の生活向上に務めていたのです。

しかもなお、朝鮮の独自性を尊重し、朝鮮語の授業を行い、ハングルの普及に努め
朝鮮の文化や歴史も子供たちに教えられていました。
それが日本による朝鮮統治の実態です。



2013年5月、韓国で痛ましい事件がありました。
95歳の御老人が「日本の統治は良かった」と発言したところ、その発言に怒り狂った37歳の男が
御老人を蹴り飛ばし、持っていた杖を奪い取って、御老人を杖で殴り殺してしまったのです。
敬老精神を美徳とする韓国でこのような事件が起ってしまったことに衝撃を受けました。

95歳ということは、ちょうど子供の頃、ここで紹介した教科書で学んでおられた年代の方です。
その子供が、日本統治時代に青春時代をおくり、第二次世界大戦や朝鮮戦争を体験し
軍事独裁時代を経て、今まで生き抜いてこられたのです。
その御老人が「日本の統治は良かった」と発言されたのです。

一方、37歳ということは、軍事独裁時代すらほとんど体験せず
韓国が豊かになり、ソウルオリンピックが行われた頃ですら、まだ12歳の子供です。

歴史を実際に体験してこられた御老人を、教科書で歴史を学んだ若者が
「お前の歴史認識は間違っている!日本統治時代はひどい時代だったんだ!」
と怒り狂って、殴り殺してしまったのです。

この事件が何を意味するのか、もうお分かりいただけるかと思います。
被害に遭われた御老人に哀悼の意を表します。



韓国にはそのような愚劣な輩がおり、その愚行を讃える衆愚がいることも承知しておりますが
それでもなお、韓国人の大多数は、本来もっと温厚で友好的だと、私は信じたいと思っています。
たとえば、殺害された御老人も韓国人です。
また私が接したことのある韓国の御老人も、とても元気で明るく温かい方でした。

にもかかわらず、いま韓国で反日感情が蔓延しているのは
その根本に、韓国政府による嘘で塗り固められた反日歴史教育があるのではないのでしょうか。
であれば、その嘘を暴き、真実の歴史を知ってもらうことで、反日感情も和らぐのではないか。
楽観的かもしれませんが、そのような希望を懐きつつこのページを作成し、韓国語にも翻訳いたしました。
ひとりでも多くの韓国人が真実に目覚め、反日感情を捨て去ってくれることを願います。



一方、韓国で反日感情が高まるのに伴い、日本でも嫌韓感情が高まっています。

もとより、韓国側の不当な主張に反論し、愚かな反日行為に抗議するのは当然のことです。
「日帝が朝鮮語を禁じ、朝鮮の文化を抹殺した」と主張するのであれば
こうして証拠を提示しつつ 「それは間違いですよ」 と反論すべきであって
韓国に媚びへつらい、あるいは反発を恐れて、韓国の主張するがままに
教科書に嘘を書き連ね、子供たちにデマを吹き込むなど、愚の骨頂です。
そのような愚鈍な売国奴に、日本の未来を担う子供たちのための教科書を書く資格などありません。
不当な主張、不当な行為には、毅然とした態度で臨むべきです。

一方で、我々日本人として忘れてならないのは
かつて日本国民としての教育を受け、日本国民として育った数多くの朝鮮人が
戦場で、あるいは銃後で、日本をまもるために戦ってくれたという事実です。

靖国神社にも、21,181柱の朝鮮人が祀られています。
中には特攻隊員として日本のために命を捧げた方もいました。
彼らはまぎれもなく、我が国の護国の英雄です。
反論すべきは反論し、抗議すべきは抗議しつつも
感謝の気持ちだけはけっして忘れてはならない、というのが私の思いです。



顧みれば、伊藤博文も、安重根も、ともに相手の国を蔑視し、憎んでなどいませんでした。

伊藤博文は 「朝鮮は朝鮮人のため」 という信念を持っていたことで知られていました。
のちに国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造が、その著書に
韓国統監だった伊藤博文と面会したときの様子を記しています。

今回朝鮮に来たのは、植民研究の材料を得るためである旨を述べた。
これを聞くと直ちに公
(=伊藤博文)
「朝鮮に内地人を移すという議論が大分あるようだが、我輩はこれに反対しておるのじゃ。」
といきなり述べられたから、
「しかし朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ましょうか」というと
「君、朝鮮人はえらいよ。
この国の歴史を見ても、その進歩したことは
日本よりはるか以上であった時代もある。
この民族にしてこれしきの国を
自ら経営できない理由はない。
才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。
しかるに今日の有り様になったのは、
人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。
国さえ治まれば、人民は量においても質においても
不足はない。」
と幾分か語気の強いいい方で滔々
(とうとう)とやられた。
(新渡戸稲造『偉人群像』p309~p310)
 
 韓国の民族衣装を身にまとう伊藤博文
wikipedia「伊藤博文」

ところが、伊藤博文は日本による朝鮮支配の象徴とみなされて
皮肉にも日本による朝鮮支配に反対する安重根に暗殺されてしまいました。
これに衝撃を受けた太皇帝(高宗)は、伊藤の死を惜しんでこう語りました。

伊藤を失ったことで、東洋の人傑がなくなった。
公はわが國に忠実正義をもって臨み
骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽すと揚言していた
(=公然と述べていた)
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。
実に伊藤はわが国の慈父である。

(名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』p237)

伊藤博文は、朝鮮の歴史に敬意を払い、朝鮮人の資質を高く評価して
将来は朝鮮人自身が朝鮮を治めることを目指して、植民地化に反対しつつ
政治改革を行い、学校や病院の建設など民生の向上に尽力するなど
朝鮮の発展に人生を捧げていたのです。

その伊藤博文を失ったことで、流れは併合の方向に傾き、1910年、韓国併合に至りました。

この事件をとらえて、いまの日本では安重根を「無智蒙昧(むちもうまい)なテロリスト」と考えられがちですが
情報社会の現代でさえ日韓間にさまざまな誤解が生じていることを考えれば
情報の乏しかった当時にあってそのような誤解が生じたのはやむを得ない事でしょう。

むしろ当時の日本では、 「祖国のために一身をなげうった英雄的行為」 を賞賛する人が多く
またその人柄に感銘を受けて、多くの人々が安重根に敬意を示していました。
そして達筆でもあった安重根は、数多くの揮毫(きごう=毛筆で文字や絵を書くこと)を残しています。

安重根の人柄を偲ばせる、次のようなエピソードがあります。

ある日園木末喜(=獄中で安重根の通訳を務めた人物)
熊本のお母さんが病気で寝込んでいると言う知らせを受けました。
安重根にはそのことを話してはいなかったのですが、
二人だけのときに安重根に尋ねられたそうです。

「園木さん、このごろ浮かない顔をしていますが、何か心配事でもあるのですか?」
園木末喜は死刑が確定した安重根を心配させまいと
「いや、ちょっと風邪気味で体調がよくないんです」と答えました。

「そうですか。だったらいいんですが、私にはそれだけじゃないような気がしたんです。
もしかしてソウルの奥さんか熊本のお母さんに何かあったのではないですか?」

そのころすでに二人の間には友情が芽生えていて、
園木末喜も4歳年上の安重根に対して実の兄のような感情を抱いていました。
園木末喜は兄さんに打ち明けるような気持ちで熊本のお母さんの話をしました。

「実は熊本の母が寝込んでいるんです。
私は父を早くに亡くし、母がずっと苦労して女手ひとつで育ててくれましたから、
寝込んだと言う知らせを聞いて心配でそれが表情に出たのかもしれません」

安重根はそれを聞いて、
「私たちはもう4ヶ月も行動を共にしているのだから、園木さんに何かあったのは感じますよ。
早く春になって暖かくなってお母さんが無事回復されるといいですね」

それを聞いて園木末喜は自分が死刑判決を受けていつ命がなくなるかもわからない立場なのに
自分のことや家族のことを気遣ってくれる安重根の真心と友情に心打たれました。

そして安重根は続けて
「園木さん、これを受け取ってください」
と一枚の書を差し出しました。

それは以前から獄中で筆を取っていたもので
「贈園木先生 日韓友誼善作紹介 庚戌二月 大韓国人 安重根」
と書いてありました。
「安さん、これは日韓の親善は
お互いがよく知り合うことが一番大切だ、
そういう意味ですね?」
「そうです。園木さん、私は執行前の祈祷時に
園木さんのお母さんの健康も祈りますよ」
こんな死刑囚もあるのかと園木末喜は言葉を失ってしまったそうです。


http://ameblo.jp/yurikim1965/entry-11418531747.htmlより転載。하늘엄마さん、ありがとうございます)
「韓日友誼」ではなく、園木のために「日韓友誼」としたところにも、細やかな心遣いが垣間見られます。

死刑執行当日、看守でありながら安重根を師と崇めていた千葉十七に

為国献身軍人本分
(国のために身を捧げるのは軍人の本分である)

と書かれた揮毫を贈りました。
そして最後に、こう言い遺しました。

「親切にしていただいたことを深く感謝します。
東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです。」

(名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』p248)

揺るぎない愛国の信念を持ち、泰然自若として
それでいて敬虔なキリスト教徒らしい心やさしさを兼ね備え、日本人からも敬愛された、
安重根は、そのような人物でした。

そして安重根も、日韓友好を願っていました。
伊藤博文も、安重根も、ともに日韓友好、東洋平和を願っていたのです。
伊藤博文、あるいは安重根を偉人・英雄として讃えるのならば
日韓友好を願ったその遺志もまた受け継ぐべきではないのでしょうか。

このページが、日韓融和の一助となることを願います。


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